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シャーク土屋(シャークつちや、1970年2月19日 - )は、日本の女子プロレスラー。本名は土屋 恵理子(つちや えりこ)。東京都練馬区出身。1989年から1998年までFMW所属。以降はフリーランス。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 デビューの経緯 1.2 全日本女子プロレスとの対抗戦 1.3 フリーランスへの転身 2 得意技 3 関連項目 経歴 [編集] デビューの経緯 [編集] プロレスラーになる以前はソフトボール選手であった。元々レスラーになるつもりはなく、デザイナーとしてFMWの団体マークを製作して売り込みに行ったところ、体格の良さを見込まれスカウトされた。ちなみにファイティングポーズをとった人間がシルエットで描かれた初期FMWのマークは、土屋の作品である。[要出典] 1989年10月6日、FMW旗揚げの日に露橋スポーツセンターにおける対ウィッチ・ウォリアー戦(パートナーは里美和・松田久美子)でデビュー。大柄な体格とパワーを生かし、工藤めぐみの向こうを張る大型ヒールとして頭角を現すようになる。当初はコンバット豊田をボスに土屋・前泊よしかの3名がヒールユニット「コンバット・アーミー」として、工藤めぐみら正規軍と戦う構図であったが、後に土屋・前泊両名が「コンバット・アーミー」を抜け、タッグチームとして、工藤めぐみ・コンバット豊田と戦う構図となった。 全日本女子プロレスとの対抗戦 [編集] しばらくして前泊とともに全日本女子プロレスの山田敏代&豊田真奈美組(当時WWWA世界タッグチャンピオン)との抗争を開始。全団体を巻き込んだ対抗戦時代の火蓋を切った。またFMWでは工藤とともに女子部門の柱として活躍。ヒールユニット「猛毒隊」を結成し、ミスター・ポーゴから火炎噴射や鎖鎌攻撃を学んで使用するようになる。 1997年4月29日、横浜アリーナにおいて工藤めぐみの引退試合(ノーロープ有刺鉄線電流爆破地雷デスマッチ)の相手を務める。 フリーランスへの転身 [編集] 1998年、FMWを離脱。LLPW、GAEA JAPANを主戦場とし、神取忍、長与千種といった絶対的ベビーフェイスに対抗する選手として活躍する。やがてLLPWのイーグル沢井率いる「平成GUREN隊」、Jd'のライオネス飛鳥率いる「裁恐軍」と合体して平成裁恐猛毒GUREN隊を結成。FMW・Jd'で大活躍を見せる。この時期、冬木弘道ら男性レスラーとも対戦。 2003年にはJWPの倉垣翼とも「猛毒隊」として共闘するが、しばらくして「猛毒隊」は解散となる。2004年11月3日のGAEA JAPANの後楽園ホール大会では、復活した伝説のヒールダンプ松本とタッグを結成してクラッシュ2000と対戦。流血の試合を展開した(長与千種&○ライオネス飛鳥&永島千佳世 vs ダンプ松本&●シャーク土屋&ZAP・T) 現在は整体関係の仕事をしつつ現役プロレスラーとして活動中である。 2010年にはFMWを復活させた「スーパーFMW」に参戦。 得意技 [編集] ツッチー・ボム ラリアット 各種凶器攻撃 PR |
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徳田 光輝(とくだ みつてる、1968年5月24日 - )は、日本のプロレスラー。兵庫県姫路市出身。
略歴 [編集] 講道館柔道3段、オリンピック強化選手の経歴を持ち、1989年、FMW旗揚げ記者会見に乱入し、大仁田厚への対戦を表明後、FMWに入団。同年10月6日、愛知県・露橋スポーツセンターにて行われたFMW旗揚げ第1戦の対ジミー・バックランド戦でデビュー。その後、関東地区のみ参戦していたが、1990年7月16日の後楽園ホールを最後に長期欠場した後、退団する。 その後、1991年8月、世界格闘技連合W★ING(旧W★ING)旗揚げに参加し、齋藤彰俊・木村浩一郎と格闘三兄弟を結成するが、程なく旧W★INGは崩壊、斎藤は旗揚げ戦を行わないまま活動停止したWMAへ、木村はフリーランスとして、他団体への活動を移し、残った徳田は、旧W★INGから分かれたW★INGプロモーションへと移籍する。 W★INGプロモーションでは、初期にはエースになるものの、不甲斐ない試合が続き、後に移籍してきた松永光弘が後楽園ホールのバルコニーからのダイビングを敢行し、ファンの心を掴んだことにより実質的にNO.2の存在となってしまう。その後も不甲斐ない試合が続くが、当時W★INGプロモーションのヒールのトップであったミスター・ポーゴに付き、ヒール転向を宣言し、ファンを期待させるが、その直後から欠場を続け、解雇処分となってしまう。 1995年、西日本プロレスで復帰したが、経営難と選手同士の分裂から西日本プロレスを離脱、同年12月にはポイズン澤田と組んで新団体『Jet's』旗揚げに動くも資金面等で問題が発生し頓挫。フリーランスを経て、1997年にビッグ・フォール・エンタープライズを旗揚げするが、わずか数戦を行った後、活動を停止した。 その後は1999年、2006年、2007年に畠中浩旭が率いるアジアン・スポーツ・プロモーション(アジアンプロレス)に参戦したことが確認されている。 松永光弘の著書によると、練習嫌いで、他のレスラーの陰口や悪口をふれ回った為、仲間のレスラー達に嫌われていたとのことで、W★INGのOB達による記念興行にも呼ばれず、会場入り口に遺影を飾られると云ったことからも、そのことが事実であったと推測される。 |
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戸井 克成(とい かつなり、1965年3月9日 - )は、日本の男子プロレスラー。東京都出身。
目次 [非表示] 1 概要 2 リングネーム 3 得意技 4 入場曲 5 外部リンク 概要 [編集] ミスター・ヒトがトレーナーを務めるカルガリーのプロレス養成所でリッキー・フジや橋本真也らと共に修行に励み、 1993年8月7日、W★INGプロモーションにてデビュー。デビュー戦の相手はジプシー・ジョー。その後PWCやFMWなどのインディ団体を転々とし、現在は無所属のフリー選手。維新力と行動を共にすることが多い。 特に目立った実績もなく、実にマニアックな存在だが、そこが受けたのか極一部でカルトな人気を博している。 リングネーム [編集] 戸井克成 戸井マサル(デビュー当時) 上海キッド(マスクマン) トーキョータイガー(ペイントレスラー) 得意技 [編集] プランチャ ダイビング・フットスタンプ スピンキック ダブル・ニー・ドロップ オモプラッタ 入場曲 [編集] 「風になりたい」 THE BOOM |
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