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諏訪魔(すわま、男性、1976年11月23日 - )は、日本のプロレスラー。本名は諏訪間 幸平(すわま こうへい)。神奈川県藤沢市出身。全日本プロレス所属。既婚。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 アマチュア時代 1.2 全日本プロレス 1.2.1 新人時代 1.2.2 ヒール転向 1.2.3 本隊再合流・三冠初奪取 1.2.4 スタイルの確立 1.2.5 新世代のリーダーとして 2 人物 3 得意技 4 タイトル歴 5 外部リンク 来歴 [編集] アマチュア時代 [編集] 高校時代は柔道部で活躍(入学当初は柔道部でいじめに遭い、登校拒否寸前であったと自ら告白している)し、中央大学進学後にレスリングを始めて主将となる。大学を卒業してからはクリナップに就職しレスリングを続ける。 2002年の全日本レスリング選抜選手権、国体で優勝し、世界選手権代表にも選ばれる。 2003年9月にフリースタイル120kg級で世界選手権に出場するも予選敗退。12月の全日本選手権では決勝まで進出したが判定負けを喫した。 2004年のアテネオリンピックを目指すも、自分の階級の出場枠がなくなったこともあり、馳浩のスカウトで27歳でプロレスの道へ歩むことになる。 全日本プロレス [編集] 新人時代 [編集] 2004年4月に全日本プロレスに入門し、同年10月11日後楽園ホール大会にて馳浩戦でデビュー。 試練の7番勝負初戦ではベイダーと戦い、彼のその巨体を見事に投げ切ってみせるなどして健闘(その後小島聡、佐々木健介、ジャマール、太陽ケアと対戦)。 「ネクスト・ジャンボ」(ジャンボ鶴田二世という意味合い)というあだ名で名を馳せていく。 2005年には新春恒例のヘビー級バトルロイヤルで優勝し、賞金100万円を獲得。武藤敬司と組んで世界タッグ王座にも挑むなど、活躍の幅をさらに広げた。 同年9月18日、熊本市の興南会館で行われた「熊秋祭(ゆうしゅうさい)」の第1試合直後、極悪集団VOODOO-MURDERS(以下VM)に捕まって金属パイプで殴打されそうになっていた当時練習生のブルート一生を救出。逃げ遅れた"brother"YASSHIをアンクルホールドで負傷欠場に追い込んだ(ちなみにYASSHIは未だにこのことを恨んでるらしい)。 その一方で、後楽園ホールにおけるタッグマッチでの佐々木健介との対戦であごを骨折し欠場するなど、次第に伸び悩みを見せる部分もあった。 ヒール転向 [編集] そして、2006年1月8日の大阪大会で、三冠ヘビー級王者である小島聡と全日本プロレス本隊への不満を爆発させ、それまで対立していたはずのVMへ加入し、小島、武藤らと本格的に対峙する気概を見せ付けた。今までエリートアスリートとしての印象が強かったが、この転進によって存在感ある大型ヒールとしての大成が大いに期待された。 デビュー当時からは本名で活動していたが、VM入りに伴い2006年2月にリングネームを諏訪魔に改名した。同年のチャンピオン・カーニバルでは、仲間のアシストもあって三冠王者小島を破り準優勝。6月10日の熊本三井グリーンランド大会「武藤祭」では、王者の指名で三冠王座に挑戦。激闘の末敗れたものの、その実力を改めて証明した。2007年1月4日にはタッグマッチながら長州力と初対戦した。 2007年2月17日、RO'Zと両国国技館大会で川田利明・太陽ケア組と世界タッグ王座を争うが、不甲斐ない試合内容で敗れた。 2007年のチャンピオン・カーニバルではVMの総帥TARUに「セコンドには着くな」と言い1人で戦うと宣言。その通りに1・2戦目は1人で戦ったが、3戦目の武藤敬司戦からTARUが勝手にセコンドに着く。この日の試合では試合中に右膝を痛めるアクシデントが発生し、その後武藤に徹底的に右膝を攻められる。最後は足4の字固めを決められ、TARUがTシャツをリングに投げ入れて敗れた。試合後TARUは諏訪魔を抱き起こそうとするが、諏訪魔はこれを拒否し1人で退場。TARUと諏訪魔の間に亀裂が走ったかに見えた。 翌日の対佐々木健介戦ではなんと開始14秒で見事勝利を奪う。試合後諏訪魔はTARUに向かって「おいオジキ、見たろ、勝ったぞ」と勝利宣言し、TARUとの結束をアピールした。 7月にはTARUの指令でアメリカのプロレス団体TNAを視察。ジェフ・ジャレット副社長と会談した後、スコット・スタイナーとの電撃合体を果たした。 12月に行われた世界最強タッグ決定リーグ戦には、小島とのタッグで出場も準優勝に終わり、試合後に「お前らのやり方が気に入らない」とのコメントを残し一人で会場を去ってしまう。これに対してTARUは「今日の負けは気にすることはない」「明日になればいつもの諏訪魔に戻るやろ」とフォローしていたが、小島からは「パートナーの選択を間違えた」とハッキリダメ出しされてしまい、VM内紛に発展するのではないかとの心配もされていた。 本隊再合流・三冠初奪取 [編集] そして2008年1月3日の後楽園大会のメイン後諏訪魔は小島にラストライド、TARUにジャーマン・スープレックスを浴びせた後、武藤と握手をし、VMを離脱した1月9日のシリーズ最終戦では試合後も暴れまくるVMをまたも制裁し、今度は三冠王者・健介とも握手をした。3月1日の両国大会ではTARUとの壮絶な一騎打ちを制した。(ビール瓶・机攻撃、手錠で手をふさがれるなどの攻撃があった) 2008年4月9日棚橋弘至を下し、チャンピオン・カーニバル初制覇。デビューから3年5か月での制覇は、ジャンボ鶴田の記録を大幅に上回り、史上最速である。 そしてCC優勝後の4月29日、愛知県体育館で佐々木健介が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦し、勝利してベルトを奪取した。これもデビューから獲得まで、この時点での史上最速の記録となった。 2度目の防衛戦の相手として西村修が名乗りを挙げるが「集客力の問題」でこれを拒否。しかしタッグマッチで西村と対戦するたびに諏訪魔自らがフォール負けを喰らい、3連敗を喫してしまう。この王者としての不甲斐なさに実の母から「西村さんにプロレスを教えてもらいなさい」と叱責される程だった。 そして遂に西村の挑戦を受諾。前哨戦ではまたフォール負けを喫するも6月28日、36分57秒という激戦の中ラストライドで西村から勝利を奪い王者の意地を見せた。 7月1日、馳浩のプロデュースの元、三冠戦で死闘を繰り広げた西村とのタッグを組み、8月3日に世界タッグ王座の挑戦が決定。馳から世界タッグ王座を奪い五冠王者になるようエールを送られた。しかし奪取することはできなかった。 8月31日の両国国技館大会では、太陽ケアとの三冠戦を繰り広げる。熱戦だったが、結果は60分フルタイムのドロー。結果的に防衛成功はしたものの、ブーイングを受けるなどその評価は高くは無かった。また、その矢先の雷陣明戦において(9月13日・後楽園ホール)、雷陣が諏訪魔の攻撃を受けた際に意識を失い、緊急搬送されるというアクシデントに遭遇。ショックが尾を引き、スランプ状態に陥った。武藤敬司に休場届を出したほどでもある。しかし、9月21日の博多大会にて、諏訪魔の試合中に無事退院した雷陣が登場。諏訪魔に猛ゲキを与え、なんとか復活することに成功した。 9月28日、横浜文化体育館大会で、グレート・ムタを迎え三冠戦に臨む。雷陣がセコンドについたが、王座陥落。 スタイルの確立 [編集] 三冠ヘビー級王座を失ってからは、自分の試合スタイルを確立するために奮闘中である。ベルトを手放してからは、プレッシャーに縛られないのびのびとした試合運びをするようになり、「以前より輝いて見える」と小島聡からも言われた。 また、よく3人タッグを組んでいる真田、征矢(YASSHIからは「三馬鹿」と言われている)を育て上げ、最強タッグに出場できるようにするなど、若手育成にも着手している。 世界最強タッグ決定リーグ戦には、ブードゥー時代から馬が合い、相性も良かった近藤修司とのタッグで出場。準優勝という結果を残す。 2009年、近藤とのタッグ名を「ディストラクション」(英語で「破壊」の意)とし、鈴木みのる、太陽ケアの持つ世界タッグに挑戦するも敗戦。 その後は高山善廣の持つ三冠王座に標準を定める。同じく三冠王座を狙う小島と王座挑戦権を争うも、チャンピオンカーニバル'09覇者の鈴木に挑戦権が渡ってしまう。 8月30日、遂に両国で三冠王者高山に挑戦が決定。結果、王座奪取はならなかったがスーパーヘビー級同士のド迫力のぶつかり合いを展開。王者高山から「諏訪魔は強かった。戦い方もいろいろ考えてきたんだろう。まだ若いし、もうちょっともまれたらもっと強くなる。」と賞賛を受けた。 新世代のリーダーとして [編集] 12月13日、ファン感謝デーのメインイベントで征矢と組んで河野・真田組と対戦。大熱戦を展開し最後は真田からラストライドで勝利。試合後マイクで「2009年は若いオレたちが決起しました。2010年は上の世代にどんどん食いついていって、かき乱して、オレたちの新しい時代を作りたいと思います。」と新世代の決起をアピール。バックステージではその4人に浜を加えた5人で新しい時代を作っていくことを約束した。 2010年1月2日、上記の5人でタッグを組んで武藤、曙、西村、船木、そして三冠王者の小島と10人タッグの3本勝負で対戦し真田、浜がそれぞれ1本獲って勝利。新世代軍の力を見せつけた。 しかし、その後の新世代の一人河野の不甲斐なさに対して苛立ちを覚え、抗争に発展。3月21日の両国大会での一騎打ちが決定すると前哨戦で激しい戦いを展開し、当日の両国大会でもスーパーヘビー級同士の激しい攻防の末、最後は河野のジャイアント・ニー・ドロップの前に破れた。 同年8月29日の両国大会で、悲願の鈴木みのる越えを達成し、2度目の三冠ヘビー級王座獲得。翌日には全日本プロレス選手会長にも就任し、全日本新時代の幕を切り開いた。 9月10日、後楽園大会にて河野と組んで新アジアタッグ王者であり同じく新世代軍の真田と征矢とメインで対戦。メインというだけでなく新世代の幕開けとして組まれた諏訪魔達にとって非常に重要な試合であったが、河野や征矢の不甲斐なさが目立ち観客から野次が飛ぶという事態が起こる。さらに試合後新世代軍のリーダーとしてマイクで抱負を語っている途中、征矢が急に新世代の解散を要求。同じく新世代軍の浜は必死に説得を試みるが河野や真田も解散に賛成。諏訪魔もそれを受諾し新世代軍解散を宣言。あまりにも早過ぎるユニット解散に観客から戸惑いの空気が流れ、またも野次が起こるとそれにキレた諏訪魔が観客席にマイクを投げつけるという事件に発展。この事態を重く見た全日本プロレスは諏訪魔に対し、厳重に注意すると共に3か月間30%の減給という処分を下した。 10月24日、超党派軍の船木誠勝を相手に初防衛戦をすることを発表。横浜文化体育館にて防衛戦を行い前哨戦では激し過ぎる攻防を展開。注目の王座戦は30分近くという激闘を制し初防衛に成功。マイクで「これからの全日本プロレスはオレが作る。なぜなら、全日本プロレスの三冠チャンピオン、諏訪魔だ!」と高らかに宣言した。 年末の最強タッグでは浜をパートナーに迎え出場。後順調に勝ち進み決勝進出を果たすが対戦相手のKENSO、KONO組の度重なる反則に苦戦を強いられ結果敗北。5年連続の準優勝という結果に終わった。 12月9日、第37回プロレス大賞で殊勲賞を獲得。「今年一年いろいろ先頭に立って全日本プロレスを引っ張っていこうという行動がこうやって“殊勲賞”という形で評価されたのは嬉しい。」と喜びのコメントを寄せた。 人物 [編集] デビュー前から未来のエース候補として期待を寄せられ、自身もエースとして全日本プロレスを背負っていこうという強い覚悟を持っている。その為武藤と西村などのトップ選手が欠場しピンチに陥っている状態で全日を辞めた小島をツイッター上で痛烈に批判したり、熱い試合を展開しているのにもかかわらず客が入らない状況に危機感を抱いているなど人一倍全日本プロレスのことを考えている。 クリナップ勤務時代には、商品の流し台を一人で担いで運ぶなど、身体能力を仕事にも生かしていた。 試練の7番勝負の途中でヒール転向したため、5戦しか行われていない。 プロレス転向前に結婚しており、子供もいる。 初めて三冠王者になった時、「過去の三冠王者の中で俺が一番弱いんじゃないかと思う。ここからが勝負。」と謙虚に語った。 ヒール転向前は黒髪にスポーツ刈りだったが、ヒール転向後は金髪と赤に染め、その後は赤の長髪で定着。今は心機一転し金と黒の長髪となっている。 ベビーターンしたことで「諏訪魔」から本名に戻すかと思われたが、「今更本名に戻してもファンはしっくりこないと思う。K-1の魔裟斗だってあんな名前なのにベビーフェイスだから」と語り、結局このまま「諏訪魔」で通した。 VM時代にスクールボーイで佐々木健介に14秒で勝利したことがある。 世界タッグ王座には何度も挑戦しているが未だに戴冠したことがない。また、世界最強タッグリーグ戦では5年連続で準優勝(全て違うパートナー)というお世辞にも名誉とはいえない記録を持っている。 得意技 [編集] レスリング仕込みの柔軟なスープレックス系の投げ技と自慢の怪力を活かしたパワフルな技が多い。 ラストライド 諏訪魔改名後のフィニッシュ技。 この技でチャンピオン・カーニバルを制覇した。 ジャーマン・スープレックス デビュー当初からヒールターンまでのフィニッシュ技。現在は投げっぱなしを多用する。TARUはこれを食らった後「あれは人を殺しかねない」と言っている。デビュー当初は非常に危険な角度で落としていたためジャマールや武藤を失神させたこともある。 バックドロップ、バックドロップ・ホールド ネクストジャンボと名付けられた時期に、鶴田を意識して使うようになった。 アンクルホールド この技でYASSHIの足をへし折ったことがある。前転しながら相手の足を取るという独特な入り方も見せる。 変形ドラゴンスクリュー 2008年チャンピオン・カーニバル最終戦から使用。ドラゴンスクリューとは逆方向に相手の足を捻り上げるように投げる技。アンクルスクリューとでもいうような、まさにアンクルホールドの布石のような技。この技の連係でドーリングから勝利を奪いチャンピオン・カーニバル決勝進出を決めた。 ブードゥーロック 2006年の5-6月シリーズで考案。両脚をクロスさせる変形のアンクルホールド。ロックした足がVの字に見えることから命名。 ハーフネルソン・スープレックス ジャーマンやバックドロップよりも使用頻度が高い。危険な角度で落とす時もあり、2005年のチャンピオン・カーニバルで川田の首を負傷させたこともある。 ダブルチョップ 両手で放つ逆水平チョップ。諏訪魔に改名してから使用している。 ラリアット 諏訪魔の場合、左右両方の腕で打てる。特に左のラリアットは見えない角度から入るため非常に強力な威力を誇る。 ローリングラリアット フィニッシュムーヴの一つ。 フロント・スープレックス 「スロイダー」の形になることもある。 フロッグスプラッシュ この技で健介から三冠ヘビー級王座を奪取した。2008年のチャンピオン・カーニバルで優勝を争った棚橋弘至のハイフライフローと同型。 変形ブレーンバスター ブレーンバスターの体勢からDDT気味に頭から前に落とす技。2008年チャンピオン・カーニバル優勝後の三冠戦から使用。 タイトル歴 [編集] 三冠ヘビー級王座…第37代、第43代 2008年度チャンピオン・カーニバル 優勝 三冠ヘビー級王座、チャピオンカーニバル共、デビューから3年5か月という、ジャンボ鶴田をも上回る史上最速で制覇している(三冠はその後、浜に記録を破られた。)。 台湾カップ 優勝 2009年11月20日、台湾大会で行われた所属選手による1Dayトーナメント。 2005年新春ヘビー級バトルロイヤル優勝 天龍プロジェクト認定 世界6人タッグ王座…第2代(パートナーは嵐、石井智宏) プロレス大賞 2006年 最優秀タッグチーム賞(VOODOO-MURDERSとして) 2010年 殊勲賞 PR |
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