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ジャイアント・シルバ(Giant Silva、1963年7月21日 - )は、ブラジルサンパウロ州出身の元バスケットボール選手、現総合格闘家、プロレスラー。本名はパウロ・セザール・ダ・シウバ (Paulo César da Silva)。フリー。
格闘技界史上最大の選手というギミックを持つが、バスケットボール選手時代の登録身長は219cmである。また、「格闘技界」にプロレスを含めた場合、これより大きな公称身長を標榜した選手は複数いる。 目次 [非表示] 1 来歴 2 戦績 2.1 総合格闘技 3 関連項目 4 外部リンク 来歴 [編集] ソウルオリンピックとバルセロナオリンピックでバスケットボールブラジル代表として出場した。 その後WWF(現在のWWE)にスカウトされプロレスラーに転向、ドリー・ファンク・ジュニアとトム・プリチャードのコーチを受け、1998年にデビュー。クルガンやゴルガとの怪物ユニット「ヒューマン・オディティーズ」の一員となり、当初はヒール、後にベビーフェイスとしてカイエンタイなどと抗争した。WWF退団後はメキシコのCMLLにも参戦。 2001年9月に蝶野正洋に勧誘され、TEAM 2000のメンバーとして新日本プロレスに参戦した。同じく巨人レスラーのジャイアント・シンとのタッグチームは「クラブ・セブン」と名付けられた(共に身長が7フィート以上のため)。 その後、活躍の場所をDSE主催興行へ移す。2003年12月31日、PRIDE初参戦となったPRIDE 男祭り 2003でヒース・ヒーリングと対戦し、スリーパーホールドで一本負け。 2004年4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のヘビー級GP1回戦で戦闘竜と対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ち。 2004年6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDのヘビー級GP準々決勝で小川直也と対戦し、グラウンドパンチでTKO負け。 2006年4月2日、PRIDE 武士道 -其の拾-で美濃輪育久と対戦し、グラウンドで膝蹴りを受けTKO負け。 2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で曙と対戦し、アームロックで一本勝ち。 ハッスルにも高田モンスター軍の一員として参戦している。 戦績 [編集] 総合格闘技 [編集] 総合格闘技 戦績 8 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 2 勝 0 2 0 0 0 0 6 敗 4 2 0 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 ○ 曙 1R 1:02 アームロック K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!! 2006年12月31日 × 美濃輪育久 1R 2:23 TKO(グラウンドでの膝蹴り) PRIDE 武士道 -其の拾- 2006年4月2日 × ジェームス・トンプソン 1R 1:28 TKO(踏みつけ) PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI- 2005年12月31日 × チェ・ムベ 1R 5:47 肩固め PRIDE 男祭り 2004 -SADAME- 2004年12月31日 × 杉浦貴 1R 2:35 TKO(サッカーボールキック) PRIDE 武士道 -其の四- 2004年7月19日 × 小川直也 1R 3:29 TKO(パウンド) PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND 【ヘビー級GP 準々決勝】 2004年6月20日 ○ 戦闘竜 1R 4:04 チキンウィングアームロック PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦 【ヘビー級GP 1回戦】 2004年4月25日 × ヒース・ヒーリング 3R 0:35 スリーパーホールド PRIDE 男祭り 2003 2003年12月31日 関連項目 [編集] 男子総合格闘家一覧 プロレスラー一覧 PRIDE選手一覧 HERO'S選手一覧 バスケットボール選手一覧 PR |
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ジャイアント・キマラ(Giant Kimala)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はベンジャミン・ピーコック(Benjamin Peacock、1964年2月19日 - )。自称アフリカ・ボツワナ共和国出身。アメリカではボツワナ・ビースト(The Botswana Beast)のリングネームで知られる。
WWFやWCWで活躍した初代ジャイアント・キマラ(ジム・ハリス)とは別人。初代キマラとキマラIIを区別する場合、初代はカマラ(Kamala)と呼ばれる。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 関連項目 4 外部リンク 来歴 [編集] 1986年にジョージア地区においてボツワナ・ビーストの名でデビュー。 1987年ジョージア州にてディープ・サウスヘビー級王座戴冠。 1990年にアブドーラ・ザ・ブッチャーのパートナーとして全日本プロレスに初来日。当時は初代キマラが活躍しており、ジャイアント・キマラIIを名乗ったが、その後、初代が来日しなくなり、ジャイアント・キマラと改名した。1996年にブッチャーが東京プロレスに移籍すると、泉田純とタッグを結成。名物タッグ・チームとして人気を博した。 世界最強タッグ決定リーグ戦にはブッチャーや泉田とのコンビで再三出場したほか、1998年にはゲーリー・オブライトとの異色コンビで出場している。また、ファミリー軍団と悪役商会の抗争にも、後者の一員としてたびたび参加していた。 1999年にウガンダのリングネームでECWに参戦。 2004年からはIWA・JAPANに参戦。 得意技 [編集] ネックブリーカー・ドロップ ダイビング・ボディ・プレス スチーム・ローラー このほか、巨体でありながらドロップキックも使いこなした。 関連項目 [編集] キマラ・ザ・バウンサー(アーケードゲームのキャラクター) |
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蹴射斗(けいと、本名:青野 敬子(あおの けいこ)、1973年4月8日 - )は、日本の女子プロレスラー。大阪府門真市出身。
目次 [非表示] 1 経歴 2 所属 3 得意技 4 タイトル歴 5 入場テーマ曲 6 外部リンク 経歴 [編集] LLPWに入門し、1995年2月10日の後楽園ホール大会における、対レオ北村戦でデビュー。2001年9月に、遠藤美月、カルロス天野とユニット「DASH!」を結成。BLACK JOKERやG-MAXと抗争した。2002年6月15日の桂スタジオ大会でBLACK JOKERに勝利し、6人タッグ王座を獲得した。選手会長を務めていた時期もあったが、2004年3月31日付でLLPWを解雇された。 フリー転向後はNEO女子プロレスやGIRLS DOORに素顔で上がっていたが、同時進行で「別の姿」でJWP女子プロレスに上がっているという「噂」が立っていた。そして2007年4月15日のJWP後楽園ホール大会で、ECO対コマンド・ボリショイ対闘獣牙Leonのマスカラ・コントラ・マスカラ・3WAYマッチが行われ、ECOが敗戦。ECOがマスクを脱ぎ、正体が青野敬子であることが明かされた。 素顔に戻った後も青野はJWP所属としてリングに上がり、2007年5月13日にはリングネームを蹴射斗(けいと)に改めた。 2010年9月19日を以ってJWPを退団。再びフリーとなる。 所属 [編集] LLPW(1994年 - 2004年) フリーランス(2004年 - 2007年) JWP女子プロレス(2007年 - 2010年) フリーランス(2010年 - ) 得意技 [編集] 変形シュバイン 夜叉ロック バイオレットパワーストーン タランチュラ ブルドッキングフェイスバスター タイトル歴 [編集] LLPW 第10代LLPW認定6人タッグ王座(パートナーは遠藤美月、カルロス天野) 入場テーマ曲 [編集] 「The Beauty of Silence」 |
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ジャンボ堀(ジャンボほり、1962年9月25日 - )は、日本の女子プロレスラー。本名は堀 あゆみ(ほり あゆみ)。身長180cm、体重80kg、血液型A型。東京都武蔵村山市出身。日本の女子プロレス史上最長身の体格を誇った。
目次 [非表示] 1 経歴・戦歴 2 得意技 3 タイトル歴 4 入場テーマ曲 5 外部リンク 経歴・戦歴 [編集] 1978年 12月2日、茨城・常陸太田市民体育館において、対平田二三代戦でデビュー。入門後すぐ足首を複雑骨折したため、デビューは同期にくらべ大幅に遅れた。同期には、デビル雅美がいる。 1979年 一年後輩の新人に混ざって新人王決定トーナメントに参加、優勝。 1980年 ピーター・フォーク主演のアメリカ映画「カリフォルニア・ドールズ」にミミ萩原と共に出演。 1980年12月、当時破竹の上昇気流に乗る横田利美と組んでWWWA世界タッグ王座を獲得するが、シングル指向の横田の意向もあり、すぐに返上。 1981年2月、横浜文化体育館でナンシー久美と組んでWWWA世界タッグ王座を再び獲得。2度の防衛後、11月に沖縄・奥武山体育館でミミ・大森ゆかり組に王座を明け渡す。 1982年1月、千葉公園体育館で空位のオールパシフィック王座をワイルド香月と争い、勝利。第7代王者となる。2度の防衛後王座を返上し、ミミとのコンビでWWWA世界タッグ王座に挑戦するが、当時の王者チーム、デビル雅美・タランチェラ組の牙城を崩せず。 1983年〜1984年 新たに大森とタッグチーム「ダイナマイト・ギャルズ」を結成し、デビル・タランチェラ組の保持するWWWA世界タッグ王座に挑戦。王者組の反則暴走がエスカレートし、ベルトは協会預かりに。同メンバーで、異例の3番勝負による決着が宣言される。大阪・川崎と会場を移しながら1-1のイーブンで迎えた6/14・札幌の決戦も、引き分け裁定。急遽3日後の6月17日・旭川で4戦目が行われたが、タランチェラの両膝負傷による不本意なTKO勝ちで新王者に。 8月後楽園ホールで突然ブレイクしたライオネス飛鳥、長与千種の「クラッシュ・ギャルズ」の挑戦を受け勝利するも、少女ファンのブーイングを浴びる。強力なライバル出現で、闘いのモチベーションは急上昇。1984年1月にクラッシュの再挑戦、6月にダンプ松本・クレーン・ユウ組の挑戦を退け、最強王者ぶりをいかんなく発揮。8月に後楽園ホールでクラッシュに敗れるまで、7度の王座防衛に成功した。 1984年 ミミ萩原に次ぎヌード写真集「チャンピオン・ハイウェイ」を出版。撮影はマイク岡田。 1985年 持病の腰痛が悪化し、リング上で精彩を欠くようになる。8月、夢だった日本武道館大会では新人選手に混ざり、第一試合に出場。その後元力士との結婚を理由に引退を発表し、12月大田区体育館で引退試合&セレモニーを行う。 1998年8月14日に川崎市体育館で行われたOGマッチ「メモリアル・オールスター戦〜あの時、君は強かった!!」にダンプ、大森と共に発起人として参加。 2005年8月、後楽園ホールで行われたLLPWの「立野記代25周年記念バトルロイヤル」にOGとして参加し、大森と合体攻撃を見せた。 その後、フリーとして現役復帰。LLPWなどで不定期に試合を行っている。2007年には孫が誕生し、日本人初のおばあちゃんレスラーになっている。 得意技 [編集] パワーボム ジャンボスープレックス 振り子投げ エアプレーンバスター タイトル歴 [編集] WWWA世界タッグ王座 オールパシフィック王座 昭和54年度新人王 入場テーマ曲 [編集] 「スターレディー」 |
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ジャガー横田(ジャガーよこた、本名:木下 利美(きのした りみ)、旧姓:横田、1961年7月25日 - )は、日本の女子プロレスラー。東京都荒川区出身。血液型はB型。左利き。所属事務所はシンクバンク。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 デビュー 1.2 最古参女子レスラー 1.3 ジャガーY 2 得意技 3 プライベート 3.1 結婚 3.2 出産 4 タレント活動 5 著書 6 音楽 6.1 シングルレコード 6.2 CD 6.3 テレビドラマ 7 関連項目 8 外部リンク 経歴 [編集] デビュー [編集] 4人姉妹の末娘として誕生。荒川区立尾久西小学校、荒川区立第七中学校卒業(小・中学校の後輩に伊集院光がいる)。卓球で淑徳高等学校に推薦入学が内定していたが、家庭の経済的負担を軽減すべく全日本女子プロレス入りする。ちなみにそのときの動機は「これなら私にもできそう」だったという。 最古参女子レスラー [編集] 身長160cmという女子レスラーとしては恵まれない体格の持ち主ながら、その気迫迫るファイトは「女子プロレス界一のストロングスタイル」と評され、これまでに初代全日本シングル王者、第29代・31代WWWA世界シングル王座など数々のタイトルを所持している。 なお1990年代には吉本興業企画の女子プロレス軍団『吉本女子プロレスJd'』に所属、若手を指導する。現在は現役最古参女子レスラーとして各女子プロレス団体のリングに上がるとともに、フリーの立場で各団体の後輩の指導に当たる。 ジャガーY [編集] 2005年11月3日に横浜アリーナで行われた「ハッスル・マニア2005」で、ハッスル軍と戦うモンスター軍に、女豹のようなメイク&コスチュームに身を包んだ、ジャガー横田を思わせる名前とルックスを持つ謎の女「ジャガーY」が現れたが、ジャガー横田との関係は不明である。話すときは語尾が「〜ニャ」となる。 得意技 [編集] ジャンピング・ヒップアタック 卍固め 鬼気迫る表情でこの技をかける様は、横田最大の見せ場である。 ジャガー式スープレックス ジャガー式バックドロップホールド ジャガー式パイルドライバー シャトルループバスター ダブルアーム式パイルドライバー 腕をダブルアームに固めたままロックを放さずに落とす。タイガードライバー91(原型)に似ている。 プライベート [編集] 結婚 [編集] 2004年7月に、年下の医師(医学博士でリングドクター)で、現在は所沢胃腸病院などに勤務の医師や鎌倉女子大学教授を務める木下博勝と結婚。「究極の勝ち組結婚」として世間を賑わす。 その後も『徹子の部屋』、『踊る!さんま御殿!!』、『クイズ$ミリオネア』、『はなまるマーケット』『メレンゲの気持ち』『いい旅・夢気分』『オールスター感謝祭』等数々の人気番組に夫婦で出演し、揃ってお茶の間の人気者となっている。 出産 [編集] 2006年5月に妊娠が判明。40歳を過ぎてからの高齢出産であるということも相まって、マスコミに大きく取り上げられた。同年11月29日(現地時間、日本では11月30日)にハワイホノルルの病院で自然分娩にて男児を出産。 2007年には、年内中にリングに復帰する意向を表明した。この一連の出来事は、朝日新聞朝刊の連載(2006年12月26日開始)「患者を生きる」の妊娠・出産編にて特集「不屈のジャガー」(全6回)で連載された。 タレント活動 [編集] 日本テレビ系『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』では、主婦代表として夫婦で出演している。 1998年2月に日本テレビ系『スーパージョッキー』の「熱湯コマーシャル」に宣伝のために出演。熱湯クエスチョンのエッチな質問に大激怒し、そのナレーションをしていた日本テレビアナウンサーの菅谷大介に手を挙げながらも無理矢理自分の目の前に連れて来させ、その場でクエスチョンを読ませた。その後菅谷の顔面を熱湯に突っ込んだり、菅谷の体ごと熱湯に入れたりする等の暴挙にでた。 ラジオの文化放送「寺島尚正 ラジオパンチ!」金曜日レギュラーだが、不定期にテレビの裏番組のフジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』にゲスト出演することもある。 2007年6月放送分の日本テレビ系『行列のできる法律相談所』に夫の木下と共にゲスト出演した際、司会の島田紳助に「40歳で結婚」したことを弄られ、とっさに横田が「まるで生き遅れたみたいな言い方して」と反論したが、紳助に「まるで私は生き遅れてないみたいな言い方ですよ」と捲し立てられた。その後も「40歳のジャガー、野生のジャガーやったら死んどるぞ」と紳助に暴言を吐かれた。また、夫の木下は同じくゲスト出演し、隣の席に座っていた上戸彩にデレデレした様子だった。 著書 [編集] 怒れ!!チャンピオン―おもしろすぎるぞ!女子プロレス(桃園書房)ISBN 4807820052 人生、何が起こるかわからない(イースト・プレス)ISBN 4872575857 ボクに宇宙一の幸せをくれたジャガー―ボクらの出産顛末記(日本テレビ放送網)ISBN 4820399799 ※夫の木下博勝との共著 音楽 [編集] シングルレコード [編集] ジャガー横田「愛のジャガー」(1983年発売、ミノルフォン(徳間音工)) CD [編集] ジャガー横田&木下博勝「愛のデュエット」(2007年10月17日発売、ポニーキャニオン) テレビドラマ [編集] 新大江戸捜査網 第22話「恐怖! 妖女軍団」(1984年9月1日、テレビ東京) - おまさ 関連項目 [編集] 不妊治療 |
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