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【2025/05/10 22:04 】 |
ケニー・フロリアン
ケニー・フロリアン(Kenny Florian、男性、1976年5月26日 - )は、アメリカ合衆国の総合格闘家。マサチューセッツ州ウェストウッド出身。フロリアン・マーシャルアーツ主宰。ブラジリアン柔術黒帯。
リアリティ番組「The Ultimate Fighter」シーズン1出身の選手である。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 The Ultimate Fighter
1.2 UFC
2 戦績
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

ラテンアメリカ系移民の子として生まれる。
The Ultimate Fighter [編集]
2005年1月、リアリティ番組「The Ultimate Fighter」シーズン1にチャック・リデル率いるチーム・リデルのミドル級選手として参加。シーズン終盤のミドル級トーナメント準決勝でクリス・リーベンにTKO勝ちし、フィナーレへの出場権を獲得した。
4月9日、The Ultimate Fighter 1 Finaleのミドル級トーナメント決勝でディエゴ・サンチェスと対戦。TKO負けにより準優勝に終わったものの、その後のUFCへの出場権を手にした。
UFC [編集]
UFC参戦後は1試合ごとに階級をミドル級からウェルター級、ウェルター級からライト級へと下げ、The Ultimate Fighter 3 Finale以降はライト級で参戦している。
2006年10月14日、UFC 64で空位となっていたライト級王座を賭けてショーン・シャークと対戦するが、判定で敗れ、王座獲得には至らず。
2007年4月5日、UFC Fight Night 9では、三島☆ド根性ノ助をチョークスリーパーで破った。7月7日、UFC 73ではアルヴィン・ロビンソンを打撃で攻め立てギブアップ勝ちを収めた。
2008年4月2日、UFC Fight Night 13でジョー・ローゾンと対戦し、パウンドでTKO勝ち[2]。ファイト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。8月9日、UFC 87でロジャー・ウエルタと対戦、スタンドで主導権を奪い、判定勝利を収めた[3]。11月15日のUFC 91ではジョー・スティーブンソンと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。試合後、王者BJペンへの挑戦をアピールした[4]。
2009年8月8日、UFC 101でBJペンの持つライト級王座に挑戦するも、4Rにチョークスリーパーで一本負けし、王座獲得には至らなかった[5]。12月12日、UFC 107でクレイ・グイダと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ちを収めた[6]。
2010年3月31日、UFC Fight Night: Florian vs. Gomiのメインイベントで五味隆典と対戦。3R中盤にチョークスリーパーで一本勝ちを収め、サブミッション・オブ・ザ・ナイトを受賞した[7][8]。
2010年8月28日、UFC 118でグレイ・メイナードと対戦し、0-3の判定負けを喫した[9]。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
18 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
13 勝 3 9 1 0 0 0
5 敗 1 1 3 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× グレイ・メイナード 5分3R終了 判定0-3 UFC 118: Edgar vs. Penn 2 2010年8月28日
○ 五味隆典 3R 2:52 チョークスリーパー UFC Fight Night: Florian vs. Gomi 2010年3月31日
○ クレイ・グイダ 2R 2:19 チョークスリーパー UFC 107: Penn vs. Sanchez 2009年12月12日
× BJペン 4R 3:45 チョークスリーパー UFC 101: Declaration
【UFC世界ライト級タイトルマッチ】 2009年8月8日
○ ジョー・スティーブンソン 1R 4:03 チョークスリーパー UFC 91: Couture vs. Lesnar 2008年11月15日
○ ロジャー・ウエルタ 5分3R終了 判定3-0 UFC 87: Seek and Destroy 2008年8月9日
○ ジョー・ローゾン 2R 3:28 TKO(パウンド) UFC Fight Night 13 2008年4月2日
○ ディン・トーマス 1R 4:31 チョークスリーパー UFC Fight Night 11 2007年9月19日
○ アルヴィン・ロビンソン 1R 4:30 ギブアップ(マウントパンチ) UFC 73: Stacked 2007年7月7日
○ 三島☆ド根性ノ助 3R 3:57 チョークスリーパー UFC Fight Night 9 2007年4月5日
× ショーン・シャーク 5分5R終了 判定0-3 UFC 64: Unstoppable
【UFC世界ライト級王座決定戦】 2006年10月14日
○ サム・スタウト 1R 1:46 チョークスリーパー The Ultimate Fighter 3 Finale 2006年6月24日
○ キット・コープ 2R 0:37 チョークスリーパー The Ultimate Fighter 2 Finale 2005年11月5日
○ アレックス・カラレクセス 2R 2:52 TKO Ultimate Fight Night 1 2005年8月6日
× ディエゴ・サンチェス 1R 2:49 TKO(パウンド) The Ultimate Fighter 1 Finale
【ミドル級トーナメント 決勝】 2005年4月9日
× ドリュー・フィケット 5分3R終了 判定1-2 Combat Zone 7: Gravel Pit 2004年7月10日
○ ボビー・マッカンドリュース 1R 1:57 チキンウィングアームロック Mass Destruction 15 2004年2月21日
○ ジェイソン・ジル 1R TKO(スタンドの打撃) Mass Destruction 10 2003年1月25日
脚注 [編集]

^ http://boxing.nv.gov/2008%20Results/11-15-08%20MMA.pdf ネバダ州アスレチック・コミッション 2010年4月2日閲覧
^ 【UFN13】フロリアンがローゾンを下す! MMAPLANET 2008年4月3日
^ 【UFC87】GSPが完全防衛。BJ・ペンと最強対決へ MMAPLANET 2008年8月10日
^ 【UFC91】ケン・フロ、“BJを超える勝利”に挑戦表明 MMAPLANET 2008年11月16日
^ 【UFC101】BJ・ペン、最強の挑戦者退けライト級王座防衛 MMAPLANET 2009年8月9日
^ 【UFC107】フロリアン、難敵グイダを退け復帰飾る MMAPLANET 2009年12月13日
^ 【UFN21】五味、UFCデビュー戦はケンフロの前に散る MMAPLANET 2010年4月1日
^ UFC Fight Night 21 bonuses: Florian, Nelson, Pearson, Siver earn $30K awards MMAjunkie.com 2010年3月31日
^ 【UFC118】メイナード、フロリアンからテイクダウンを連発 MMAPLANET 2010年8月29日
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【2011/01/07 21:32 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
イリューヒン・ミーシャ
イリューヒン・ミーシャ(Ilyukhim Mikhail、男性、1966年11月21日 - )は、ロシア・トゥーラ州出身の総合格闘家。ロシアン・トップチーム所属。
ヴォルク・ハンの弟子。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
3 関連項目
4 外部リンク
来歴 [編集]

1994年6月18日、リングスに初来日。長井満也に腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。以降、リングス常連選手として参戦を重ねる。
1995年7月1日、ロシアで行われたIAFCに出場し、優勝。
1995年9月25日、IAFCに出場。3回戦でイゴール・ボブチャンチンに勝利するなどして決勝に進むも、ヒカルド・モラエスにチョークスリーパーで一本負けし、準優勝に終わる。
1996年7月14日、シュートボクシング「S-cup '96」でメストレ・フッキとバーリ・トゥード・ルールで対戦し、変形裸絞めで一本勝ち。
1997年に行われたリングス初のチャンピオン選定トーナメントにおいて、1回戦で成瀬昌由、2回戦で高阪剛を破り、準決勝では兄弟子に当たるヴォルク・ハンをも下して決勝に進出。翌年に行われた決勝では田村潔司に敗れたものの、見事準優勝を飾った。
2003年6月8日、PRIDE初参戦となったPRIDE.26でクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと対戦し、TKO負け。
2005年11月23日、U-STYLE Axisで川田利明と対戦し、4分44秒フロントチョークで一本負け。3日後の11月26日にHERO'Sリトアニア大会でも試合を行った。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
39 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
27 勝 0 23 2 2 1 0
11 敗 2 6 0 3
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ジョーダナス・ポスカイティス レッグロック HERO'S Lithuania 2005年11月26日
○ ペトロフ・コレフ 1R ヒールホールド リングス・エカテリンブルク 2005年8月20日
× クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン 1R 6:26 TKO(グラウンドパンチ) PRIDE.26 REBORN 2003年6月8日
○ 藤井克久 5:45 ギロチンチョーク プレミアムチャレンジ 2002年5月6日
△ 金原弘光 5分3R終了 判定1-0 リングス WORLD TITLE SERIES GRAND-FINAL 2002年2月15日
× ボビー・ホフマン 2R終了時 TKO(タオル投入) リングス WORLD TITLE SERIES
〜旗揚げ10周年記念特別興行〜
【ワールドタイトル決定トーナメント ヘビー級 準決勝】 2001年8月11日
○ ボリス・ジュリアスコフ 2R 0:53 膝十字固め リングス WORLD TITLE SERIES
【ワールドタイトル決定トーナメント ヘビー級 1回戦】 2001年6月15日
○ メストレ・フッキ 7:03 変形裸絞め シュートボクシング S-cup '96 決勝戦
【バーリ・トゥード・ルール】 1996年7月14日
【2011/01/06 22:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスとハロルド坂田
├─≠ョ─ヵラス 銀メダリスト
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 映画「007 ゴールドフィンガー」では、悪役ゴールドフィンガーの部下で、ツバに刃物を仕込んだ山高帽を投擲する東洋人用心棒オッド・ジョブ役で出演
【2011/01/06 20:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
アレン・コージ
アレン・ジェイムズ・コージ(Allen James Coage、1943年10月22日 - 2007年3月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。また、モントリオールオリンピックの柔道重量級の銅メダリストでもある。ニューヨーク州ニューヨークシティ出身のアフリカ系アメリカ人。
プロレスでは、バッドニュース・ブラウン(Bad News Brown)またはバッドニュース・アレン(Bad News Allen)のリングネームで、新日本プロレス、WWF(現・WWE)、カルガリー地区などを主戦場に、ラフよしテクニックよしのヒールとして活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 得意技
4 獲得タイトル
5 入場テーマ
6 脚注
7 外部リンク
来歴 [編集]

ペンシルベニア州立大学時代に日本人柔道家の米塚義定六段(元・柔道アメリカ代表監督)に師事。AAUの柔道選手権重量級で5度優勝し、1975年にパン・アメリカン王者となる[1]。1976年にはモントリオールオリンピックに出場、柔道重量級で銅メダルを獲得した。
1977年10月25日、当時異種格闘技戦に注力していた新日本プロレスの「格闘技世界一決定戦」(メインイベントはアントニオ猪木対チャック・ウェプナー戦)に初来日。坂口征二と柔道ジャケットマッチを行うが敗退する。同年12月8日にはウィレム・ルスカとも対戦。以降、新日本プロレスに入門してバッファロー・アレンのリングネームでプロレスラーに転向した。
1978年まではベビーフェイスのポジションでヒールのルスカと抗争を展開したが、1979年に本名のアレン・コージ名義でニューヨークのWWFエリアを短期間サーキットした際[2]、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えてヒール修行を行う。同年夏からはロサンゼルス地区で同じ黒人ヒールのレロイ・ブラウンやビクター・リベラと組み、NWAアメリカス・タッグ王座を3回に渡って獲得した[3]。
1980年より、髪をスキンヘッドにしてバッドニュース・アレンと改名。ラフファイト主体のヒールに変貌し、以降1987年まで新日本プロレスに連続参戦。プロレスに適応できなかったルスカとは対照的に、シリーズに欠かせない名脇役として活躍する。主にタッグマッチに才能を発揮し、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルーザー・ブロディなど、新日本の歴代エース外国人のパートナーを務めた。シングルでは坂口の北米ヘビー級王座に再三挑戦したほか、1984年2月7日には蔵前国技館のメインイベントでアントニオ猪木と対戦。ブッチャーやラッシャー木村との仲間割れによる抗争アングルも組まれた。
北米マットでは、1982年よりスチュ・ハートが主宰するカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに定着。同団体の看板タイトルであるスタンピード北米ヘビー級王座を巡り、ダイナマイト・キッド、ブレット・ハート、モンゴリアン・ストンパーらと激闘を繰り広げた[4]。1986年末からはフロリダ地区に参戦、1987年1月20日にロン・シモンズからNWAフロリダ・ヘビー級王座を[5]、1月31日にケビン・サリバンからNWA南部ヘビー級王座を[6]それぞれ奪取している。
1988年、バッドニュース・ブラウンとしてWWFと契約。初のPPV登場となる同年3月27日のレッスルマニアIVで行われた20人バトルロイヤルでは、同じヒールとして共闘していたブレット・ハートを裏切って優勝を収めた(この一件によりブレット・ハートはベビーフェイスに転向し、スーパースターへの道を歩むことになる)[7]。その後もケン・パテラやジャンクヤード・ドッグを撃破し、12月にはランディ・サベージのWWF世界ヘビー級王座にも挑戦[8]。翌1989年3月11日放送(2月16日収録)のサタデー・ナイト・メイン・イベントではハルク・ホーガンと対戦した[9]。
WWFではニューヨークのハーレム育ちのストリート・ファイターというギミックを与えられ、誰も信用しない一匹狼のヒールとして活躍。タッグマッチを行っても必ずパートナーと衝突し、サバイバー・シリーズでは2年連続でチーム・メンバーと仲間割れを起こし、試合を放り出して一人で控え室に帰ってしまった[10][11]。フィニッシュ技は新日本マットでマスターした延髄斬りで、ハーレムの喧嘩屋というキャラクターに合わせゲットー・ブラスター(Ghetto Blaster)と名付けられた。WWFには1990年下期まで在籍し、ジム・ドゥガン、ロディ・パイパー、ジェイク・ロバーツらトップスターとも短期抗争を行っている[12]。
WWF離脱後は新日本プロレスに復帰し、本国ではカナダに永住してロッキー・マウンテン・レスリングなどのインディー団体を転戦。古巣のカルガリーではハート道場(通称 "ダンジョン" )の臨時コーチ役を務め、クリス・ジェリコらを指導している。1992年8月にはUWFインターナショナルに来日。柔道家時代に培った関節技を多用するなど、それまでの悪役レスラーのイメージとは異なる本来のテクニシャンぶりを披露した。1993年12月5日の神宮球場大会では桜庭和志をチキンウィング・アームロックで破っている。
1998年1月にはカナディアン・ロッキーズ(アダム&ジェイ)を帯同して新東京プロレスにも参戦したが、同年に膝を手術して現役を引退。その後はカルガリーでショッピングモールの警備員として働きつつ、再興したスタンピード・レスリングのカラー・コメンテーターを務め、若手選手の指導にも携わった[13]。
2007年3月6日早朝、急性心不全を起こし病院に緊急搬送されるが死去[13]。63歳没。同日、かつて所属していたWWEの公式サイトでも訃報が伝えられた。
エピソード [編集]

WWF時代のギミックそのままに、喧嘩の強さはレスラー仲間からも一目置かれていた。WWFのバックステージでダイナマイト・キッドが犬猿のルージョー兄弟(レイモンド&ジャック)に闇討ちされた際、キッドの親友である彼が騒ぎに気づいて現れると、ルージョー兄弟は一目散に逃げ出したという[14]。
黒人差別を激しく嫌悪し、アブドーラ・ザ・ブッチャーが「自分以上に敏感だった」と語るほどだったという。差別的な発言をしたアンドレ・ザ・ジャイアントをホテルの屋上へ連れ出し「謝らなければここから突き落とす」と脅しをかけたという逸話を残している。
得意技 [編集]

ゲットー・ブラスター
ストマック・クロー
ヘッドバット
パワースラム
チキンウィング・アームロック
獲得タイトル [編集]

NWAアメリカス・タッグ王座:3回(w / レロイ・ブラウン×1、ビクター・リベラ×2) [3]
NWAポリネシアン・パシフィック・ヘビー級王座:1回 [15]
スタンピード北米ヘビー級王座:4回 [4]
NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回 [5]
NWA南部ヘビー級王座:1回 [6]
etc.
入場テーマ [編集]

『スナイパー・フロム・ザ・ダークネス』(大野雄二)
【2011/01/06 20:14 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
パット・オコーナー
パット・オコーナー(Pat O'Conner、1927年8月22日 - 1990年8月16日)は、ニュージーランドの男性プロレスラー。ニュージーランドウェリントン出身。ニックネームは「魔術師」。身長185cm、体重112kg。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

学生時代はニュージーランドでフットボールとレスリングでならした。1950年イギリスで行われた大英帝国競技会に参加し金賞を獲得。この試合を米国のプロモーターに認められスカウトされ同年米国に於いてプロレスデビュー。
1959年1月9日、セントルイスでディック・ハットンを破り第42代NWA世界ヘビー級王者となる、また同時期に初代AWA世界ヘビー級王者に認定される。AWA王座は1960年8月に剥奪され、NWA王座は2年5か月間にわたって王座に君臨するも、1961年6月にバディ・ロジャースに破れ転落。1963年初来日。力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。セントルイス・レスリング・クラブでマッチメイカーとして長年活躍した。
1990年8月16日に肝臓癌により死去。62歳没。
ジャイアント馬場との親交も深く、馬場のランニング・ネックブリーカー・ドロップのアイデアはオコーナーから示唆されたという。馬場の全日本プロレス旗揚げにも選手として協力し、また大相撲横綱・輪島大士がプロレス入りした際、馬場から託されて彼のトレーニングを引き受けた。馬場が全日本旗揚げ直後に行った「世界ヘビー級争覇戦」(初代PWFヘビー級王座の決定戦となった)の対戦相手8人にも(当時すでに40代半ばであったにもかかわらず)起用されている。
ハットンを破って世界王者となった試合は、ゴング誌に連載された原康史筆「世界のプロレス史」によれば、一本目ハットン(コブラツイスト)、二本目オコーナー(ドロップキックからフォール)、三本目オコーナー(ドロップキックから逆エビ固め)とされるが、オコーナーがストレートで勝った、最後はエビ固めという説もある。
アントニオ・ロッカ、ペドロ・モラレスと共にドロップキック三人男の一人と言われ、またルー・テーズによればプロレス最高のドロップキックの使い手とされる。
1990年12月16日に、「パット・オコーナー・メモリアル・インターナショナル・タッグ・トーナメント」が行われ、国別代表タッグ8チームが一日で競い合った。決勝でアメリカ代表のスタイナーブラザーズと、日本代表のグレート・ムタ、マサ斎藤組が戦い、スタイナーブラザーズが優勝した。
得意技 [編集]

ローリングクラッチホールド(ローリングバッククラッチ、オコーナーズ・ロール・アップ)
ドロップキック(スカイロケット)
パイルドライバー
獲得タイトル [編集]

NWA
NWA世界ヘビー級王座 : 1回
AWA
AWA世界ヘビー級王座 : 1回
ミネアポリス派初代AWA王者に認定するが、1960年5月に90日以内にバーン・ガニアの挑戦を受けないとAWA王座を剥奪するとAWAから発表され、ガニアとの対戦を拒否したため同年8月に剥奪される。
【2011/01/06 20:14 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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