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パット・オコーナー(Pat O'Conner、1927年8月22日 - 1990年8月16日)は、ニュージーランドの男性プロレスラー。ニュージーランドウェリントン出身。ニックネームは「魔術師」。身長185cm、体重112kg。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 関連項目 5 外部リンク 来歴 [編集] 学生時代はニュージーランドでフットボールとレスリングでならした。1950年イギリスで行われた大英帝国競技会に参加し金賞を獲得。この試合を米国のプロモーターに認められスカウトされ同年米国に於いてプロレスデビュー。 1959年1月9日、セントルイスでディック・ハットンを破り第42代NWA世界ヘビー級王者となる、また同時期に初代AWA世界ヘビー級王者に認定される。AWA王座は1960年8月に剥奪され、NWA王座は2年5か月間にわたって王座に君臨するも、1961年6月にバディ・ロジャースに破れ転落。1963年初来日。力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。セントルイス・レスリング・クラブでマッチメイカーとして長年活躍した。 1990年8月16日に肝臓癌により死去。62歳没。 ジャイアント馬場との親交も深く、馬場のランニング・ネックブリーカー・ドロップのアイデアはオコーナーから示唆されたという。馬場の全日本プロレス旗揚げにも選手として協力し、また大相撲横綱・輪島大士がプロレス入りした際、馬場から託されて彼のトレーニングを引き受けた。馬場が全日本旗揚げ直後に行った「世界ヘビー級争覇戦」(初代PWFヘビー級王座の決定戦となった)の対戦相手8人にも(当時すでに40代半ばであったにもかかわらず)起用されている。 ハットンを破って世界王者となった試合は、ゴング誌に連載された原康史筆「世界のプロレス史」によれば、一本目ハットン(コブラツイスト)、二本目オコーナー(ドロップキックからフォール)、三本目オコーナー(ドロップキックから逆エビ固め)とされるが、オコーナーがストレートで勝った、最後はエビ固めという説もある。 アントニオ・ロッカ、ペドロ・モラレスと共にドロップキック三人男の一人と言われ、またルー・テーズによればプロレス最高のドロップキックの使い手とされる。 1990年12月16日に、「パット・オコーナー・メモリアル・インターナショナル・タッグ・トーナメント」が行われ、国別代表タッグ8チームが一日で競い合った。決勝でアメリカ代表のスタイナーブラザーズと、日本代表のグレート・ムタ、マサ斎藤組が戦い、スタイナーブラザーズが優勝した。 得意技 [編集] ローリングクラッチホールド(ローリングバッククラッチ、オコーナーズ・ロール・アップ) ドロップキック(スカイロケット) パイルドライバー 獲得タイトル [編集] NWA NWA世界ヘビー級王座 : 1回 AWA AWA世界ヘビー級王座 : 1回 ミネアポリス派初代AWA王者に認定するが、1960年5月に90日以内にバーン・ガニアの挑戦を受けないとAWA王座を剥奪するとAWAから発表され、ガニアとの対戦を拒否したため同年8月に剥奪される。 PR |
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