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【2025/05/08 05:24 】 |
アレン・コージ
アレン・ジェイムズ・コージ(Allen James Coage、1943年10月22日 - 2007年3月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。また、モントリオールオリンピックの柔道重量級の銅メダリストでもある。ニューヨーク州ニューヨークシティ出身のアフリカ系アメリカ人。
プロレスでは、バッドニュース・ブラウン(Bad News Brown)またはバッドニュース・アレン(Bad News Allen)のリングネームで、新日本プロレス、WWF(現・WWE)、カルガリー地区などを主戦場に、ラフよしテクニックよしのヒールとして活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 得意技
4 獲得タイトル
5 入場テーマ
6 脚注
7 外部リンク
来歴 [編集]

ペンシルベニア州立大学時代に日本人柔道家の米塚義定六段(元・柔道アメリカ代表監督)に師事。AAUの柔道選手権重量級で5度優勝し、1975年にパン・アメリカン王者となる[1]。1976年にはモントリオールオリンピックに出場、柔道重量級で銅メダルを獲得した。
1977年10月25日、当時異種格闘技戦に注力していた新日本プロレスの「格闘技世界一決定戦」(メインイベントはアントニオ猪木対チャック・ウェプナー戦)に初来日。坂口征二と柔道ジャケットマッチを行うが敗退する。同年12月8日にはウィレム・ルスカとも対戦。以降、新日本プロレスに入門してバッファロー・アレンのリングネームでプロレスラーに転向した。
1978年まではベビーフェイスのポジションでヒールのルスカと抗争を展開したが、1979年に本名のアレン・コージ名義でニューヨークのWWFエリアを短期間サーキットした際[2]、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えてヒール修行を行う。同年夏からはロサンゼルス地区で同じ黒人ヒールのレロイ・ブラウンやビクター・リベラと組み、NWAアメリカス・タッグ王座を3回に渡って獲得した[3]。
1980年より、髪をスキンヘッドにしてバッドニュース・アレンと改名。ラフファイト主体のヒールに変貌し、以降1987年まで新日本プロレスに連続参戦。プロレスに適応できなかったルスカとは対照的に、シリーズに欠かせない名脇役として活躍する。主にタッグマッチに才能を発揮し、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルーザー・ブロディなど、新日本の歴代エース外国人のパートナーを務めた。シングルでは坂口の北米ヘビー級王座に再三挑戦したほか、1984年2月7日には蔵前国技館のメインイベントでアントニオ猪木と対戦。ブッチャーやラッシャー木村との仲間割れによる抗争アングルも組まれた。
北米マットでは、1982年よりスチュ・ハートが主宰するカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに定着。同団体の看板タイトルであるスタンピード北米ヘビー級王座を巡り、ダイナマイト・キッド、ブレット・ハート、モンゴリアン・ストンパーらと激闘を繰り広げた[4]。1986年末からはフロリダ地区に参戦、1987年1月20日にロン・シモンズからNWAフロリダ・ヘビー級王座を[5]、1月31日にケビン・サリバンからNWA南部ヘビー級王座を[6]それぞれ奪取している。
1988年、バッドニュース・ブラウンとしてWWFと契約。初のPPV登場となる同年3月27日のレッスルマニアIVで行われた20人バトルロイヤルでは、同じヒールとして共闘していたブレット・ハートを裏切って優勝を収めた(この一件によりブレット・ハートはベビーフェイスに転向し、スーパースターへの道を歩むことになる)[7]。その後もケン・パテラやジャンクヤード・ドッグを撃破し、12月にはランディ・サベージのWWF世界ヘビー級王座にも挑戦[8]。翌1989年3月11日放送(2月16日収録)のサタデー・ナイト・メイン・イベントではハルク・ホーガンと対戦した[9]。
WWFではニューヨークのハーレム育ちのストリート・ファイターというギミックを与えられ、誰も信用しない一匹狼のヒールとして活躍。タッグマッチを行っても必ずパートナーと衝突し、サバイバー・シリーズでは2年連続でチーム・メンバーと仲間割れを起こし、試合を放り出して一人で控え室に帰ってしまった[10][11]。フィニッシュ技は新日本マットでマスターした延髄斬りで、ハーレムの喧嘩屋というキャラクターに合わせゲットー・ブラスター(Ghetto Blaster)と名付けられた。WWFには1990年下期まで在籍し、ジム・ドゥガン、ロディ・パイパー、ジェイク・ロバーツらトップスターとも短期抗争を行っている[12]。
WWF離脱後は新日本プロレスに復帰し、本国ではカナダに永住してロッキー・マウンテン・レスリングなどのインディー団体を転戦。古巣のカルガリーではハート道場(通称 "ダンジョン" )の臨時コーチ役を務め、クリス・ジェリコらを指導している。1992年8月にはUWFインターナショナルに来日。柔道家時代に培った関節技を多用するなど、それまでの悪役レスラーのイメージとは異なる本来のテクニシャンぶりを披露した。1993年12月5日の神宮球場大会では桜庭和志をチキンウィング・アームロックで破っている。
1998年1月にはカナディアン・ロッキーズ(アダム&ジェイ)を帯同して新東京プロレスにも参戦したが、同年に膝を手術して現役を引退。その後はカルガリーでショッピングモールの警備員として働きつつ、再興したスタンピード・レスリングのカラー・コメンテーターを務め、若手選手の指導にも携わった[13]。
2007年3月6日早朝、急性心不全を起こし病院に緊急搬送されるが死去[13]。63歳没。同日、かつて所属していたWWEの公式サイトでも訃報が伝えられた。
エピソード [編集]

WWF時代のギミックそのままに、喧嘩の強さはレスラー仲間からも一目置かれていた。WWFのバックステージでダイナマイト・キッドが犬猿のルージョー兄弟(レイモンド&ジャック)に闇討ちされた際、キッドの親友である彼が騒ぎに気づいて現れると、ルージョー兄弟は一目散に逃げ出したという[14]。
黒人差別を激しく嫌悪し、アブドーラ・ザ・ブッチャーが「自分以上に敏感だった」と語るほどだったという。差別的な発言をしたアンドレ・ザ・ジャイアントをホテルの屋上へ連れ出し「謝らなければここから突き落とす」と脅しをかけたという逸話を残している。
得意技 [編集]

ゲットー・ブラスター
ストマック・クロー
ヘッドバット
パワースラム
チキンウィング・アームロック
獲得タイトル [編集]

NWAアメリカス・タッグ王座:3回(w / レロイ・ブラウン×1、ビクター・リベラ×2) [3]
NWAポリネシアン・パシフィック・ヘビー級王座:1回 [15]
スタンピード北米ヘビー級王座:4回 [4]
NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回 [5]
NWA南部ヘビー級王座:1回 [6]
etc.
入場テーマ [編集]

『スナイパー・フロム・ザ・ダークネス』(大野雄二)
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【2011/01/06 20:14 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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