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【2025/05/15 15:12 】 |
天龍源一郎
天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、男性、1950年2月2日 - )は、日本の元大相撲力士、現プロレスラー。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重110kg)。
多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、第一線で活躍し続け日本プロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として、一目置かれる存在である。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 角界時代
1.2 全日本プロレス
1.3 SWS・WAR
1.4 フリー・WJ
1.5 NOAH・ハッスル参戦
1.6 自主興行
2 タイトル歴
3 大相撲時代
3.1 主な成績
3.2 土俵歴
3.3 改名歴
4 ファイトスタイル
5 得意技
6 エピソード
7 入場曲
8 関連項目
9 脚注
10 外部リンク
来歴 [編集]

角界時代 [編集]
福井県勝山市に生まれる。勝山市立北郷小学校卒業後、勝山市立北部中学校へ入学するも、大相撲への入門が内定したことから中学2年の時に墨田区立両国中学校へ転校した。1963年12月、二所ノ関部屋に入門。天龍の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川部屋入りして押尾川親方に付いて行きたがったが、二所ノ関部屋に戻され意気消沈したとされ、1976年秋場所に勝ち越したものの(東前頭13枚目、8勝7敗)、同場所を最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。
全日本プロレス [編集]
入団と共に渡米しファンク道場で修行、1976年11月13日にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂においてリング上で断髪式を行う。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。
大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれたり、ジャンボ鶴田とのタッグを組まれたりしたが、体格はプロレス用に絞っており威圧感が無かったことや、技術が伴っていなかったこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。当時、「全日本第3の男」と呼ばれていたものの、人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低いものだった。タイガー戸口が全日所属だったときは、戸口よりも格下扱いであった。
1981年7月30日、ビル・ロビンソンとのタッグで馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦したことを契機に何かを掴む。実際、この試合以降は天龍の評価も急上昇し(天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っている)、世界王者への挑戦権も獲得した。この頃から、ライバル団体である新日本プロレスの総帥アントニオ猪木に遠慮して使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、全日本で異彩を放つようになっていく。それまでは紫のタイツを使用していたが、この頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという、現在まで続く天龍のスタイルに変更。リッキー・スティムボートを破りUNヘビー級のタイトルを獲得。さらに長州力率いるジャパンプロレスの参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田に匹敵する程の人気も得た。
1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成すると、続いて天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めでピンフォールを奪った。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。
SWS・WAR [編集]
1990年横浜文化体育館大会において、鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱しSWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWS在籍中には、SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッションと対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。
SWS崩壊後、1992年7月WARを設立、新日本との対抗戦に活路を見出した。1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により、1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。
1994年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちしたことのある唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。
1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し、藤原喜明、北尾光覇を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得。この試合は天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に、「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。
フリー・WJ [編集]
1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年に全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王者に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。
2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった)、11月には長州と組んでWMGタッグを奪取したものの、WJは経営が迷走。WJを離脱した。
NOAH・ハッスル参戦 [編集]
2005年初頭から、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの、当時は馬場元子が認めなかったとされる。ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕が出来、参戦が実現した。7月18日のノア・東京ドーム大会では元付き人の小川良成と対戦し勝利を収めた。 他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮﨑豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。
また、DRAGON GATEにも参戦し、WAR時代の元付き人であるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。2005年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテイメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。
2006年7月27日には、6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。
2007年10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。
自主興行 [編集]
ハッスルの活動停止後しばらくは鳴りを潜めていた天龍だったが、2010年3月に入ると、4月に「天龍プロジェクト」の名称で自主興行を行い活動を再開させる方針を明らかにした[1]。同興行には百田光雄や折原昌夫などが参加することが発表されている。
タイトル歴 [編集]

全日本プロレス
三冠ヘビー級王座
世界タッグ王座
アジアタッグ王座
PWFヘビー級王座
UNヘビー級王座
インターナショナル・タッグ王座
PWF世界タッグ王座
新日本プロレス
IWGPヘビー級王座
IWGPタッグ王座
WAR
日本J1選手権
WAR世界6人タッグ
ハッスル
ハッスル・スーパータッグ(パートナーは安田忠夫)
WJ
WMGタッグ
海外
ミッドアトランティックタッグ
NWA世界6人タッグ
大相撲時代 [編集]

主な成績 [編集]
通算成績:393勝355敗(77場所)
幕内成績:108勝132敗 勝率.450(16場所)
十両成績:94勝71敗(11場所)
優勝:幕下1回(1970年9月場所)、十両1回(1975年7月場所)
土俵歴 [編集]
初土俵:1964年1月場所
新十両:1971年9月場所
新入幕:1973年1月場所
最終場所:1976年9月場所
最高位:前頭筆頭
改名歴 [編集]
島田 源一郎(しまだ げんいちろう)1964年1月場所 - 1970年9月場所
嶋田 源一郎(しまだ - )1970年11月場所 - 1971年5月場所
島田 源一郎(しまだ - )1971年7月場所
天龍 源一郎(てんりゅう - )1971年9月場所 - 1976年9月場所
ファイトスタイル [編集]

痛みの伝わるプロレスを標榜していたこともあり、相手のどんな技も徹底的に受けて相手を光らせる術に長けている。相手の技を食らった際のやられっぷりも、天龍の試合を見る上では欠かせない。一方で自身が攻撃、反撃の際には正攻法だけではなく、顔面蹴りや喉笛へのチョップ、グーパンチのようなかなりエグイ技をも繰り出していく。ビッグマッチでは受けの時間のほうが長いが、それゆえに打たれ強さで耐えた上での反撃は半端ではなく、1992年から新日本に参戦した際には上記にも記載されているように、多くの実力者とのシングルマッチで勝利を収めている。ここ一番ではジャーマン・スープレックス、浴びせ蹴り、トペといった意表を突く技を繰り出していくのも大きな特徴。メジャーからインディーまで多くの団体で戦ったことで、後年はファイトスタイルの幅を更に広げている。
打撃技の攻防には強い一方で、新日本勢と5対5のタッグマッチで戦った際には木戸修の脇固めやアキレス腱固めといった関節技に苦しめられ、試合途中にもかかわらず右腕を痛めてそのまま場外に戦線離脱したこともある。
得意技 [編集]

パワーボム
天龍最大の必殺技で、幾多のレスラーをこの技でフォールしてきた。やがてこの技は川田利明に受け継がれ、天龍自身は53歳を編み出してからほとんど使用していない。かつては「オレのは他の奴らとフォールの姿勢が違う。ガッチリと押さえ込めば返せる奴はいない」と豪語していた。全日本時代にテリー・ゴディに仕掛けられ、あまりの衝撃(技の効果)に驚いて天龍自身もこの技を使うようになった。以後この技で、馬場、猪木、鶴田、長州、藤波を始め、若き日の四天王、三銃士らトップどころ全員からピンフォールを奪った。
53歳
独特のタイミングで落とす変形の垂直落下式ブレーンバスター。初期はジャックハマーのように体を浴びせる別物の技であったが、徐々に現在の形へと変化していった。パワーボムを使用しなくなってからは、こちらがフィニッシュ・ホールドとして使用されている。53歳は開発当時の年齢。当初は開発以降年齢を重ねるごとに「53歳→52歳→51歳→…」と1年ごとに若返っていく構想であったが、これは実現しなかった。
垂直落下式ブレーンバスター
上記のようにパワーボムが必殺技としての威力、迫力に陰りが見え始めた頃に新たな必殺技を模索していた時期があり、その頃から頻繁に使用し出す。この技と下記ノーザンライトボムを元に上記53歳を開発した。
ノーザンライトボム
1999年に佐々木健介を挑発する形で使用し始めた。試合後のマイクパフォーマンスでの「健介、ノーザンは貰ったぞ」と言う発言は語り草になる。その後、使用し続けることで「53歳」へと発展した。ちなみに、健介は後にテレビ番組のインタビューで「今までこんな酷いことを他人にやって来たのかと思った」と苦笑した。
DDT
日本では天龍本人により「デンジャラス・ドライバー・テンリュウ」の略と発言したため、命名の由来に誤解が生じたことがある。キャリア後期以降も繋ぎ技として時折使用する。
天龍稲妻落とし
天龍が風雲登り龍として最初にブレイクした際の決め技。ジャイアント馬場から直々に指導を受けている。上記DDTと勘違いされることが多いが、フェイスバスターの型を取っておりやや異なる。
逆水平チョップ(天龍チョップ)
チョップの威力を再び世に知らしめた中興の祖で、その鈍い衝撃音は会場に響き渡る。かつて天龍チョップというと、相撲の突っ張りを応用したものを指したが、多様なチョップへ変化し、現在は主に逆水平チョップを天龍チョップと呼ぶことが多い。特に天龍が繰り出すのど笛への逆水平チョップは「最もえげつないチョップ」としばしば評され、かつてジャンボ鶴田をキレさせたことがある。
起き上がりこぼし式逆水平チョップ
上記の逆水平チョップのバリエーションの一つで、左手で相手の手首を掴み、チョップで倒れた相手を引きずり上げ再びチョップを打ち、倒れた相手を再び引きずり上げを繰り返す。全日における天龍同盟時代、観客の心無い野次に怒った天龍が、その怒りを対戦相手にぶつけるために使ったとも言われている。そのためか、現在はほとんど使用していない。この技も川田が引き継いで使用している。
グーパンチ
握り拳で顔面を殴りつける技。いわゆるナックルパートなのだが、天龍が独自の工夫を凝らし長年愛用してきた結果、解説者でさえ「グーパンチ」と呼ぶようになった。腰の回転は利用せず、殴ると同時に同じ側の足を強く踏みしめ、会場に音を響かせて見た目以上のインパクトを与えている。かつての付け人である小川良成も同じようなグーパンチを繰り出している。本来は反則だが、天龍が使用する場合はなぜか反則カウントを取られることは少ない。なお、グーパンチ→逆水平のコンボを繰り返し使用するパターンもある。
顔面蹴り
天龍同盟を結成した頃より多用している。ダメージを受け、うつぶせあるいは四つん這いになっている相手に対し、下から足の甲で思いきり相手の顔面を蹴り上げる強烈な蹴り。レガースやパット付きブーツではなく普通のリングシューズのまま蹴るため、試合によっては相手の顔に靴紐の跡が残ることもある。
延髄斬り
アントニオ猪木の跳躍力を利用するものと違い、左手を相手の左肩に乗せ、体重を下に乗せながら跳び、斜め上から鉈を振り落とすように重く脚を当てる技である。田上明も天龍型の延髄斬りを使用する。ちなみに、この技を使うようになったきっかけは、アメリカでの修行中に新日本プロレスの興行から帰ってきたレスラーから「猪木が妙なキックを使う」と言う話を聞き、それを参考にして自分なりの延髄斬りを編み出したためである。また、若手時代は相手の背後から走り込んで蹴る(サッカーのボレーシュートのような形になる)延髄斬りや、相手をロープに振って、戻ってきたところを横から蹴る延髄斬りを使っていた。(ただし、タイミングを誤って相手に当らず空振りとなってしまうことがたまにあった。)
ラリアット
天龍のラリアットは左腕で浴びせ倒すスタイル。同じ型のラリアットをマグナムTOKYOが龍魂ラリアットとして受け継いでいる。
ダイビング背面エルボー・ドロップ
リングに背を向けてコーナーにのぼり、そのまま後向きに飛び降りながらエルボー・ドロップを繰り出す。エルボーを落とした後、勢いで一回転することもある。また精度には定評があり、滅多に回避されない稀有な空中技として有名。
若手の頃から使用している技であり、全盛期はリング中央近くまで飛んで行く飛距離を見せていた。
WARスペシャル
尻餅をついた体勢の相手の両腕を背後から抱えるように極めながら相手の後頭部に上体を密着させ、窒息または首関節の圧迫を狙う。もともとはルー・テーズのライバルとして活躍していたルー・キムの必殺技で、「満州固め(マンチュリアン・クラッチ)」と呼ばれていた。隠し技として裏WARスペシャルという技も存在する(変形の羽根折り固め)。
テキサスクローバーホールド
相手の両足を両腕でインディアン・デスロック状に固定して逆エビ固め状態で絞り上げる。テリー・ファンクが元祖。
卍固め
初めてインターナショナルタッグに挑戦した際、控室でパートナーだったビル・ロビンソンが教えた。一時期使用していたが、現在はほとんど使っていない。
その他、天龍は試合中に対戦相手や観客を驚かせる意外な技を繰り出すことがある。以下、主な技を記す。
雪崩式フランケンシュタイナー
この技を得意とする武藤との対戦で初めて繰り出して以来、時折使うことがあった。ちなみに、初めて使った時には自身も頭を打った。
スパイダー・ジャーマン→ダイビング背面エルボー・ドロップ の連携
ジャーマン・スープレックス・ホールド
1980年代から1990年代前半の一時期多用していた技。
浴びせ蹴り
トペ・スイシーダ
高齢のヘビー級選手かつパワーファイターがこの技を使用するのは非常に珍しい。身体をやや捻りながら飛んで行くためショルダー・スイシーダのような形になる。
凶器攻撃
代表的なものに本物のビール瓶をテープで覆って使用する。
毒霧
毒霧を仕掛ける前にセコンドからペットボトルらしき物を受け取っている。ムタとの三冠戦の時には観客とカメラの真ん前で堂々と水筒?から口に含んでいた。
エピソード [編集]

東前頭7枚目だった1973年11月場所の千秋楽、横綱輪島が前日に休場した影響で「これより三役」に登場した(横綱琴櫻に負け)。
落語家6代目三遊亭圓楽は墨田区立両国中学校の同級生で親友。田上明を紹介され全日本入団に協力した。
プロレス転向の話を持ちかけられた際に「幕内で勝ち越してから相撲を辞める」と決意。実際にその通りの結果を残し、晴れてプロレス転向を遂げた。
「一人前に仕事が出来ないうちからカッコつけたことは言っちゃいけないと思って」プロレス転向後は「風雲昇り龍」として1981年にブレイクするまで無口で大人しい態度を貫いた。
1980年代後半以降、新日本・全日本の二大団体時代が終焉し多団体時代が到来するとプロレス界は「メジャー系」「UWF・格闘技系」「インディー系」「エンタメ系」「ルチャリブレ系」「女子プロ系」という形に各団体がジャンル分けされていったが、天龍は女子も含めた全てのジャンルのトップレスラーと対戦した。最大の宿敵・鶴田を皮切りに猪木、藤波、長州、谷津、輪島、武藤、ムタ、蝶野、橋本、馳、佐々木健介、川田、小川良成、高田、藤原、北尾、大仁田、ターザン後藤、ハヤブサ、マグナムTOKYO、神取(女)とシングルマッチで対戦しいずれも勝利を収め、タッグマッチながら馬場から日本人初のピンフォールを奪っている。この他にもNOAHの三沢、小橋、田上、秋山、第三世代の天山、小島、永田、中西、西村、新三銃士の中邑、棚橋、柴田、UWF系出身の初代タイガーマスク、山崎、鈴木、高山、インディー系のポーゴ、K・ナガサキ、ハッスルのHG、インリン様、曙、ルチャ系のサスケ、新崎人生、更にはUFO時代の最も暴走していた頃の小川直也とも対戦している。全く対戦経験がない大物は前田日明くらいであり、日本人レスラーとの対戦経歴の幅広さは業界でも群を抜いている。
プロレス界一の豪傑、酒豪として知られ、数々の男気溢れるエピソードを持つ。特に様々な酒をアイスペールに注いだものは「天龍カクテル」などと呼ばれ、自分は飲まずに記者などに次々飲ませて潰してしまう。藤原喜明との「酒宴」では、果てしなく飲んだ後にヘッドバット合戦を始めた。またダチョウ倶楽部の上島竜兵に、10万円の小遣いを与えたり、飲んでいた店にいた人全員(見知らぬ人含め)の勘定を払ったりという気前の良さも持ち合わせる。だが、それはあくまでファンや他人の前だけであって、プロレス関係者に対してはその限りではない。レスラーとして見られることをプロとして十分に意識した上での振る舞いとされる。
越中詩郎が全日本を離脱し新日本プロレスに移籍することを決め、ジャイアント馬場に了解をとるため全日本の遠征先の宿に向かった際、そこで偶然天龍と遭遇したという。事情を知った天龍は越中に付き添って馬場の元に向かい、あくまで移籍を認めようとしない馬場に対し、越中の意を汲んであげるよう説得した。そして越中が宿を離れる際、はなむけの言葉とともに、餞別として越中の服のポケットに大量の一万円札を入れたという(越中の著書より)。
「全日本第3の男」が定着し、UNヘビー級獲得に苦労したり、延髄斬りや卍固めを使用したことから猪木の亜流と揶揄されたりしていたが、テリー・ファンクは一度目の引退後に雑誌のコラムで天龍を「馬場の後の全日のボス」と評し、他の外国人選手も同調したが、天龍自身は「俺がヤツラに勝てないからだろ!」と自嘲したという。
全日本時代は後輩の面倒見が良く、支持派も多かったと言う。三沢光晴はSWSに関して、「(天龍から)直接声がかかっていれば行っていた」と語っており、また川田利明もノアに関して、「あの時(SWS)の方がよっぽど(移籍するか)迷った」と語っている。
小橋建太・天山広吉と共にチョップ特集でNANDA!?に出演した時、プロレスの永遠の疑問である「なぜプロレスラーは技を避けないのですか?」という質問に対し、天龍は「よけられないんですよ。よけたら負けなんですよ。一度やっちゃったら、こいつにはもう勝てないって思っちゃう。俺はね」と答えている。
前田日明は、1987年頃に天龍が輪島の顔面を普通のリングシューズにもかかわらず容赦なく蹴っていたこと、それでも立ち上がる輪島、さらに容赦なく蹴っていた天龍の姿に衝撃を受けた。天龍自身はこの行為について「たとえ横綱だった人間でも簡単に出来るほどプロレスは甘くないということ。それから、やっぱり横綱だった人間はヤワじゃないんだよということ。この二つを皆に知ってほしかったからやったんだ」と述べている。また、輪島以外でも石川敬士、高木功や田上明といった格下の相撲出身レスラーに対しても厳しい洗礼を見舞い続けている。
入場曲『サンダーストーム』について、SWS時代は当初、個人別ではなく部屋単位での入場曲が使用されていたため、会場で流されない時期があった(団体自体は容認してもこの措置には納得のいかないファンの批判が集中したため、後に選手別入場曲は復活する)。
上田馬之助はSWSが失敗した原因として「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。しかしその後、前述通り新日本マットに上がり新日を制覇したといってもおかしくない程の実績を残し、さらにアントニオ猪木までも倒す活躍を果たした。
神取忍と対戦した際、容赦なくグーパンチ、逆水平チョップを浴びせボコボコにした。試合後顔を腫らした神取が「死ぬかと思った」「今日ほど男に生まれたいと思ったことはない」等のコメントをしている。天龍は男女の壁を越えて『ミスタープロレス』に挑んできた『ミスター女子プロレス』に対し、あえて手加減しないことで神取に敬意を示した。
相撲時代は美男子力士として女性人気が高かった。
全日本時代は色白だったが、SWS移籍を機に日焼けをし、褐色ボディへと変貌を遂げた。また近年は白髪染めの影響か、頭髪が茶髪になっている。
2006年7月に、スポーツ紙上で「ずっとジャンボとの戦いに備えていた」と、袂を分かった後も変わることのない鶴田へのライバル心を明かした。記事では、ジャンボの死後も彼といつか出会うかのごとく、依然として戦いに備えており、そのことが2000年以降の活動につながっていると語られている。
2009年6月に三沢光晴が試合中の事故で他界したことについて記者からコメントを求められたとき、「俺とあいつの関係で月並みなことは言いたくない」としてノーコメントを貫いた。
天龍の「リュウ」が、外国人には発音しにくいため、アメリカでの修行時代からアメリカでは「テン・ルー」のリングネームを使用していた(後に全日本のアメリカ遠征に出場する際にもこのリングネームを使用している)。その他、修行時代からの友人でタッグパートナーでもあったスタン・ハンセン、ロード・ウォリアーズ、リック・フレアーらも「天龍」ではなく「テンルー」と呼んでいた。
また1978年のフロリダ地区での再修行時代には、「テン・ルー」として素顔で闘うだけでなく、白地に鷹をあしらったマスクを被り、パートナーに現地のレスラー(ソニー・ドライバー)、マネージャーにタイガー服部を従え、「ライジング・サンズ」として活動したこともある。
インディー団体のリングにもこれまで上がり、若手を中心とした発展途上の選手に胸を貸している。アパッチプロレス軍のマンモス佐々木もその一人で、天龍に食らった(一騎打ちでフィニッシュ・ホールドとなった)必殺技である「53歳」を糧とし、「29歳」(佐々木の当時の年齢)を開発している。
2009年12月23日に「ホリデーインタビュー」(NHK総合)という祭日の早朝に出演。特にテレビ出演をしない天龍が、しかもNHKの番組に出演するのは意外な一面であった。
入場曲 [編集]

サンダーストーム(高中正義。1981年のアルバム「虹伝説」収録曲。なお、ハッスルに出場している時はカバー版を使っている。)
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【2010/12/31 01:04 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
DJニラ
DJニラ(でぃーじぇいニラ、1月14日 - )は、日本の男子プロレスラー。生年非公開。以前はKAIENTAI-DOJOに所属、現在はフリー。
リングネームにて「DJ」を名乗っている様に、ギミックのモチーフはクラブDJである。「DJ」とは、ディスクジョッキーの略ではなくデビルジョーカーの略であり、「ニラ」は「バニラ」に由来する。
デビュー以来一貫して団体の最弱キャラのポジションを守っており、因縁を吹っ掛けてはやられ、ユニットを組んでは傲慢に振舞い仲間に愛想を尽かれて解散を繰り返している。その弱さはドラゴンゲート所属のストーカー市川と双璧を成す。話術に優れているため、TV中継のホストも務める。決め台詞は「LOVE IS……OVER」。
2007年4月8日のKAIENTAI-DOJO5周年記念大会を最後に現役を引退したが9月5日のマッスル15で突如復帰した。
目次 [非表示]
1 経歴
2 得意技
2.1 各種DJタイム
3 入場テーマ曲
4 その他
4.1 テレビ出演
4.2 ラジオ出演
4.3 CM出演
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

KAIENTAI-DOJOには初期から所属しており、旗揚げ興行前に吉本女子プロレスJd'でK-bloodのマネージャーとしてデビュー。
K-Blood vs Psycho-ship、ロス・クアトロ・タバスコスvsパルプンテ、更に女子3選手(お船、アップルみゆき、山縣優)との抗争など、旗揚げ以来常にお船と抗争してきた。そのためお船引退後は適当な抗争相手が見つからず、本領を発揮できない日々が続いていた。
またNEO女子プロレスにもセミレギュラーとして参戦。田辺優とのバーリトゥード戦はNEOでのベストバウトとの呼び声が高い。
ストーカー市川とは最弱キャラ同士として気が合うところがあるらしく、ハッスルにて1vs2の変則タッグマッチで組んでいる。またストーカー市川とタッグを組み、北斗晶と戦ったが、10秒にも満たずにノーザンライトボムからのピンフォール負けを食らった(両者)。
666では、佐野直と組んでKY行動に出るなど、顰蹙を買っている。
プロレス界では高木三四郎と双璧をなすガンダムオタク。「再びKAIENTAI-DOJOの理想を掲げるために!本興行成功成就のために!(会場名)よ!私は帰ってきた!!」など、マイクアピールにもガンダムネタが多い。2010年、デビルジョーカーオペレーションにてユニットを組んでいた矢郷良明によく似た、ヤゴウ・アズナブルの率いるヤゴウ公国軍に参加し、DDTのリングに上がっている。
得意技 [編集]

ロケットパンチ
スピアの要領で相手に両拳を打ち込む技。
DJプレス
倒れた相手への背面アタックであるが相手が見えないため、かわされるとダメージのでかいリスキーな技である。
シットダウン式コブラツイスト
座っている相手にコブラツイストを仕掛け、横に捻りあげる。川田利明のストレッチプラムに似ている技。団体最弱キャラと言われていたが、K-METALリーグではこの技でギブアップを奪い、波乱を巻き起こした。
スモールパッケージホールド
DJニラのフィニッシュ技、技をかける前に「スモールパッケージホールド!!」と叫んでから技をかける(本来スモールパッケージホールドは、相手の一瞬の隙を見てかける技であり叫んでから使う技ではない)
各種DJタイム [編集]
(基本)「What time is it now!?」と見得を切りつつ観客と共に「DJターイム!」と叫んでから行う。
DJタイム
コーナーの相手に背面アタック
DJタイム2
コーナーの相手に前転してからの背面アタック
DJタイム3
コーナーの相手に側転してからの背面アタック
DJタイムスーパー
コーナーの相手に尻から突撃
ファイナルDJタイム
奥歯に仕込んだスイッチにより相手もろとも自爆(一度試みるも不発)
入場テーマ曲 [編集]

初代:『「ニラ」』(A1-joko)※キングレコード「KAIENTAI DOJO」の隠しトラックに収録
二代目:「Get A Dream!」(SLAYD)※「KAIENTAI-DOJO vol.7」に収録(K-METALリーグ戦出場時に使用し、終了後は元のテーマ曲に戻した)。
その他 [編集]

テレビ出演 [編集]
プロレスKING(GAORA)
ラジオ出演 [編集]
週刊ラジオプロレス(北海道放送)
CM出演 [編集]
月刊少年マガジン(講談社)
【2010/12/31 01:04 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
諏訪魔
諏訪魔(すわま、男性、1976年11月23日 - )は、日本のプロレスラー。本名は諏訪間 幸平(すわま こうへい)。神奈川県藤沢市出身。全日本プロレス所属。既婚。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 アマチュア時代
1.2 全日本プロレス
1.2.1 新人時代
1.2.2 ヒール転向
1.2.3 本隊再合流・三冠初奪取
1.2.4 スタイルの確立
1.2.5 新世代のリーダーとして
2 人物
3 得意技
4 タイトル歴
5 外部リンク
来歴 [編集]

アマチュア時代 [編集]
高校時代は柔道部で活躍(入学当初は柔道部でいじめに遭い、登校拒否寸前であったと自ら告白している)し、中央大学進学後にレスリングを始めて主将となる。大学を卒業してからはクリナップに就職しレスリングを続ける。
2002年の全日本レスリング選抜選手権、国体で優勝し、世界選手権代表にも選ばれる。
2003年9月にフリースタイル120kg級で世界選手権に出場するも予選敗退。12月の全日本選手権では決勝まで進出したが判定負けを喫した。
2004年のアテネオリンピックを目指すも、自分の階級の出場枠がなくなったこともあり、馳浩のスカウトで27歳でプロレスの道へ歩むことになる。
全日本プロレス [編集]
新人時代 [編集]
2004年4月に全日本プロレスに入門し、同年10月11日後楽園ホール大会にて馳浩戦でデビュー。
試練の7番勝負初戦ではベイダーと戦い、彼のその巨体を見事に投げ切ってみせるなどして健闘(その後小島聡、佐々木健介、ジャマール、太陽ケアと対戦)。
「ネクスト・ジャンボ」(ジャンボ鶴田二世という意味合い)というあだ名で名を馳せていく。
2005年には新春恒例のヘビー級バトルロイヤルで優勝し、賞金100万円を獲得。武藤敬司と組んで世界タッグ王座にも挑むなど、活躍の幅をさらに広げた。
同年9月18日、熊本市の興南会館で行われた「熊秋祭(ゆうしゅうさい)」の第1試合直後、極悪集団VOODOO-MURDERS(以下VM)に捕まって金属パイプで殴打されそうになっていた当時練習生のブルート一生を救出。逃げ遅れた"brother"YASSHIをアンクルホールドで負傷欠場に追い込んだ(ちなみにYASSHIは未だにこのことを恨んでるらしい)。
その一方で、後楽園ホールにおけるタッグマッチでの佐々木健介との対戦であごを骨折し欠場するなど、次第に伸び悩みを見せる部分もあった。
ヒール転向 [編集]
そして、2006年1月8日の大阪大会で、三冠ヘビー級王者である小島聡と全日本プロレス本隊への不満を爆発させ、それまで対立していたはずのVMへ加入し、小島、武藤らと本格的に対峙する気概を見せ付けた。今までエリートアスリートとしての印象が強かったが、この転進によって存在感ある大型ヒールとしての大成が大いに期待された。
デビュー当時からは本名で活動していたが、VM入りに伴い2006年2月にリングネームを諏訪魔に改名した。同年のチャンピオン・カーニバルでは、仲間のアシストもあって三冠王者小島を破り準優勝。6月10日の熊本三井グリーンランド大会「武藤祭」では、王者の指名で三冠王座に挑戦。激闘の末敗れたものの、その実力を改めて証明した。2007年1月4日にはタッグマッチながら長州力と初対戦した。
2007年2月17日、RO'Zと両国国技館大会で川田利明・太陽ケア組と世界タッグ王座を争うが、不甲斐ない試合内容で敗れた。
2007年のチャンピオン・カーニバルではVMの総帥TARUに「セコンドには着くな」と言い1人で戦うと宣言。その通りに1・2戦目は1人で戦ったが、3戦目の武藤敬司戦からTARUが勝手にセコンドに着く。この日の試合では試合中に右膝を痛めるアクシデントが発生し、その後武藤に徹底的に右膝を攻められる。最後は足4の字固めを決められ、TARUがTシャツをリングに投げ入れて敗れた。試合後TARUは諏訪魔を抱き起こそうとするが、諏訪魔はこれを拒否し1人で退場。TARUと諏訪魔の間に亀裂が走ったかに見えた。
翌日の対佐々木健介戦ではなんと開始14秒で見事勝利を奪う。試合後諏訪魔はTARUに向かって「おいオジキ、見たろ、勝ったぞ」と勝利宣言し、TARUとの結束をアピールした。
7月にはTARUの指令でアメリカのプロレス団体TNAを視察。ジェフ・ジャレット副社長と会談した後、スコット・スタイナーとの電撃合体を果たした。
12月に行われた世界最強タッグ決定リーグ戦には、小島とのタッグで出場も準優勝に終わり、試合後に「お前らのやり方が気に入らない」とのコメントを残し一人で会場を去ってしまう。これに対してTARUは「今日の負けは気にすることはない」「明日になればいつもの諏訪魔に戻るやろ」とフォローしていたが、小島からは「パートナーの選択を間違えた」とハッキリダメ出しされてしまい、VM内紛に発展するのではないかとの心配もされていた。
本隊再合流・三冠初奪取 [編集]
そして2008年1月3日の後楽園大会のメイン後諏訪魔は小島にラストライド、TARUにジャーマン・スープレックスを浴びせた後、武藤と握手をし、VMを離脱した1月9日のシリーズ最終戦では試合後も暴れまくるVMをまたも制裁し、今度は三冠王者・健介とも握手をした。3月1日の両国大会ではTARUとの壮絶な一騎打ちを制した。(ビール瓶・机攻撃、手錠で手をふさがれるなどの攻撃があった)
2008年4月9日棚橋弘至を下し、チャンピオン・カーニバル初制覇。デビューから3年5か月での制覇は、ジャンボ鶴田の記録を大幅に上回り、史上最速である。
そしてCC優勝後の4月29日、愛知県体育館で佐々木健介が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦し、勝利してベルトを奪取した。これもデビューから獲得まで、この時点での史上最速の記録となった。
2度目の防衛戦の相手として西村修が名乗りを挙げるが「集客力の問題」でこれを拒否。しかしタッグマッチで西村と対戦するたびに諏訪魔自らがフォール負けを喰らい、3連敗を喫してしまう。この王者としての不甲斐なさに実の母から「西村さんにプロレスを教えてもらいなさい」と叱責される程だった。 そして遂に西村の挑戦を受諾。前哨戦ではまたフォール負けを喫するも6月28日、36分57秒という激戦の中ラストライドで西村から勝利を奪い王者の意地を見せた。
7月1日、馳浩のプロデュースの元、三冠戦で死闘を繰り広げた西村とのタッグを組み、8月3日に世界タッグ王座の挑戦が決定。馳から世界タッグ王座を奪い五冠王者になるようエールを送られた。しかし奪取することはできなかった。
8月31日の両国国技館大会では、太陽ケアとの三冠戦を繰り広げる。熱戦だったが、結果は60分フルタイムのドロー。結果的に防衛成功はしたものの、ブーイングを受けるなどその評価は高くは無かった。また、その矢先の雷陣明戦において(9月13日・後楽園ホール)、雷陣が諏訪魔の攻撃を受けた際に意識を失い、緊急搬送されるというアクシデントに遭遇。ショックが尾を引き、スランプ状態に陥った。武藤敬司に休場届を出したほどでもある。しかし、9月21日の博多大会にて、諏訪魔の試合中に無事退院した雷陣が登場。諏訪魔に猛ゲキを与え、なんとか復活することに成功した。
9月28日、横浜文化体育館大会で、グレート・ムタを迎え三冠戦に臨む。雷陣がセコンドについたが、王座陥落。
スタイルの確立 [編集]
三冠ヘビー級王座を失ってからは、自分の試合スタイルを確立するために奮闘中である。ベルトを手放してからは、プレッシャーに縛られないのびのびとした試合運びをするようになり、「以前より輝いて見える」と小島聡からも言われた。
また、よく3人タッグを組んでいる真田、征矢(YASSHIからは「三馬鹿」と言われている)を育て上げ、最強タッグに出場できるようにするなど、若手育成にも着手している。
世界最強タッグ決定リーグ戦には、ブードゥー時代から馬が合い、相性も良かった近藤修司とのタッグで出場。準優勝という結果を残す。
2009年、近藤とのタッグ名を「ディストラクション」(英語で「破壊」の意)とし、鈴木みのる、太陽ケアの持つ世界タッグに挑戦するも敗戦。
その後は高山善廣の持つ三冠王座に標準を定める。同じく三冠王座を狙う小島と王座挑戦権を争うも、チャンピオンカーニバル'09覇者の鈴木に挑戦権が渡ってしまう。
8月30日、遂に両国で三冠王者高山に挑戦が決定。結果、王座奪取はならなかったがスーパーヘビー級同士のド迫力のぶつかり合いを展開。王者高山から「諏訪魔は強かった。戦い方もいろいろ考えてきたんだろう。まだ若いし、もうちょっともまれたらもっと強くなる。」と賞賛を受けた。
新世代のリーダーとして [編集]
12月13日、ファン感謝デーのメインイベントで征矢と組んで河野・真田組と対戦。大熱戦を展開し最後は真田からラストライドで勝利。試合後マイクで「2009年は若いオレたちが決起しました。2010年は上の世代にどんどん食いついていって、かき乱して、オレたちの新しい時代を作りたいと思います。」と新世代の決起をアピール。バックステージではその4人に浜を加えた5人で新しい時代を作っていくことを約束した。
2010年1月2日、上記の5人でタッグを組んで武藤、曙、西村、船木、そして三冠王者の小島と10人タッグの3本勝負で対戦し真田、浜がそれぞれ1本獲って勝利。新世代軍の力を見せつけた。
しかし、その後の新世代の一人河野の不甲斐なさに対して苛立ちを覚え、抗争に発展。3月21日の両国大会での一騎打ちが決定すると前哨戦で激しい戦いを展開し、当日の両国大会でもスーパーヘビー級同士の激しい攻防の末、最後は河野のジャイアント・ニー・ドロップの前に破れた。
同年8月29日の両国大会で、悲願の鈴木みのる越えを達成し、2度目の三冠ヘビー級王座獲得。翌日には全日本プロレス選手会長にも就任し、全日本新時代の幕を切り開いた。
9月10日、後楽園大会にて河野と組んで新アジアタッグ王者であり同じく新世代軍の真田と征矢とメインで対戦。メインというだけでなく新世代の幕開けとして組まれた諏訪魔達にとって非常に重要な試合であったが、河野や征矢の不甲斐なさが目立ち観客から野次が飛ぶという事態が起こる。さらに試合後新世代軍のリーダーとしてマイクで抱負を語っている途中、征矢が急に新世代の解散を要求。同じく新世代軍の浜は必死に説得を試みるが河野や真田も解散に賛成。諏訪魔もそれを受諾し新世代軍解散を宣言。あまりにも早過ぎるユニット解散に観客から戸惑いの空気が流れ、またも野次が起こるとそれにキレた諏訪魔が観客席にマイクを投げつけるという事件に発展。この事態を重く見た全日本プロレスは諏訪魔に対し、厳重に注意すると共に3か月間30%の減給という処分を下した。
10月24日、超党派軍の船木誠勝を相手に初防衛戦をすることを発表。横浜文化体育館にて防衛戦を行い前哨戦では激し過ぎる攻防を展開。注目の王座戦は30分近くという激闘を制し初防衛に成功。マイクで「これからの全日本プロレスはオレが作る。なぜなら、全日本プロレスの三冠チャンピオン、諏訪魔だ!」と高らかに宣言した。
年末の最強タッグでは浜をパートナーに迎え出場。後順調に勝ち進み決勝進出を果たすが対戦相手のKENSO、KONO組の度重なる反則に苦戦を強いられ結果敗北。5年連続の準優勝という結果に終わった。
12月9日、第37回プロレス大賞で殊勲賞を獲得。「今年一年いろいろ先頭に立って全日本プロレスを引っ張っていこうという行動がこうやって“殊勲賞”という形で評価されたのは嬉しい。」と喜びのコメントを寄せた。
人物 [編集]

デビュー前から未来のエース候補として期待を寄せられ、自身もエースとして全日本プロレスを背負っていこうという強い覚悟を持っている。その為武藤と西村などのトップ選手が欠場しピンチに陥っている状態で全日を辞めた小島をツイッター上で痛烈に批判したり、熱い試合を展開しているのにもかかわらず客が入らない状況に危機感を抱いているなど人一倍全日本プロレスのことを考えている。
クリナップ勤務時代には、商品の流し台を一人で担いで運ぶなど、身体能力を仕事にも生かしていた。
試練の7番勝負の途中でヒール転向したため、5戦しか行われていない。
プロレス転向前に結婚しており、子供もいる。
初めて三冠王者になった時、「過去の三冠王者の中で俺が一番弱いんじゃないかと思う。ここからが勝負。」と謙虚に語った。
ヒール転向前は黒髪にスポーツ刈りだったが、ヒール転向後は金髪と赤に染め、その後は赤の長髪で定着。今は心機一転し金と黒の長髪となっている。
ベビーターンしたことで「諏訪魔」から本名に戻すかと思われたが、「今更本名に戻してもファンはしっくりこないと思う。K-1の魔裟斗だってあんな名前なのにベビーフェイスだから」と語り、結局このまま「諏訪魔」で通した。
VM時代にスクールボーイで佐々木健介に14秒で勝利したことがある。
世界タッグ王座には何度も挑戦しているが未だに戴冠したことがない。また、世界最強タッグリーグ戦では5年連続で準優勝(全て違うパートナー)というお世辞にも名誉とはいえない記録を持っている。
得意技 [編集]

レスリング仕込みの柔軟なスープレックス系の投げ技と自慢の怪力を活かしたパワフルな技が多い。
ラストライド
諏訪魔改名後のフィニッシュ技。
この技でチャンピオン・カーニバルを制覇した。
ジャーマン・スープレックス
デビュー当初からヒールターンまでのフィニッシュ技。現在は投げっぱなしを多用する。TARUはこれを食らった後「あれは人を殺しかねない」と言っている。デビュー当初は非常に危険な角度で落としていたためジャマールや武藤を失神させたこともある。
バックドロップ、バックドロップ・ホールド
ネクストジャンボと名付けられた時期に、鶴田を意識して使うようになった。
アンクルホールド
この技でYASSHIの足をへし折ったことがある。前転しながら相手の足を取るという独特な入り方も見せる。
変形ドラゴンスクリュー
2008年チャンピオン・カーニバル最終戦から使用。ドラゴンスクリューとは逆方向に相手の足を捻り上げるように投げる技。アンクルスクリューとでもいうような、まさにアンクルホールドの布石のような技。この技の連係でドーリングから勝利を奪いチャンピオン・カーニバル決勝進出を決めた。
ブードゥーロック
2006年の5-6月シリーズで考案。両脚をクロスさせる変形のアンクルホールド。ロックした足がVの字に見えることから命名。
ハーフネルソン・スープレックス
ジャーマンやバックドロップよりも使用頻度が高い。危険な角度で落とす時もあり、2005年のチャンピオン・カーニバルで川田の首を負傷させたこともある。
ダブルチョップ
両手で放つ逆水平チョップ。諏訪魔に改名してから使用している。
ラリアット
諏訪魔の場合、左右両方の腕で打てる。特に左のラリアットは見えない角度から入るため非常に強力な威力を誇る。
ローリングラリアット
フィニッシュムーヴの一つ。
フロント・スープレックス
「スロイダー」の形になることもある。
フロッグスプラッシュ
この技で健介から三冠ヘビー級王座を奪取した。2008年のチャンピオン・カーニバルで優勝を争った棚橋弘至のハイフライフローと同型。
変形ブレーンバスター
ブレーンバスターの体勢からDDT気味に頭から前に落とす技。2008年チャンピオン・カーニバル優勝後の三冠戦から使用。
タイトル歴 [編集]

三冠ヘビー級王座…第37代、第43代
2008年度チャンピオン・カーニバル 優勝
三冠ヘビー級王座、チャピオンカーニバル共、デビューから3年5か月という、ジャンボ鶴田をも上回る史上最速で制覇している(三冠はその後、浜に記録を破られた。)。
台湾カップ 優勝
2009年11月20日、台湾大会で行われた所属選手による1Dayトーナメント。
2005年新春ヘビー級バトルロイヤル優勝
天龍プロジェクト認定 世界6人タッグ王座…第2代(パートナーは嵐、石井智宏)
プロレス大賞
2006年 最優秀タッグチーム賞(VOODOO-MURDERSとして)
2010年 殊勲賞
【2010/12/28 19:32 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
真田聖也
真田 聖也(さなだ せいや、男性、1988年1月28日 - )は、日本のプロレスラー。新潟県新潟市出身。全日本プロレス所属。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 新人時代
1.2 全日本プロレスヘビー級戦線での活躍
1.3 無我の後継者
1.4 新世代軍として
1.5 es
2 得意技
3 タイトル・受賞歴
4 ファイトスタイル
5 人物
6 入場曲
7 出演作品
8 関連項目
9 外部リンク
経歴 [編集]

小学校4年の時に兄がプロレスのゲームを買ってくる。当時プロレスについて全く興味が無かったが、その日の深夜に放送していた長州力の引退興行を見たことでプロレスに興味を持ち始めた。
中学時代は野球部で、高校時代から柔道部に所属する。しかし、2年で柔道をやめてレスリング部に所属するようになり、プロレスラーを目指すようになる。『武藤塾』の新人オーディションに合格し入門。トレーニングの成果からか入門後に5cm身長が伸び、本来ジュニアヘビー級でやっていくつもりであったが、ヘビー級として頑張ることを決意する。
新人時代 [編集]
2007年3月13日高岡大会にて中嶋勝彦、T28を相手にデビュー(パートナーは土方隆司)。5月29日には、佐々木健介、中嶋勝彦と組み「サムライTV杯争奪トリプルアロートーナメント」で優勝し、デビュー2か月でプロ入り初のタイトルを獲得。またその準決勝でT28から逆エビ固めで勝利し、プロ入り初勝利を飾った。
6月24日、VOODOO-MURDERS(以下VM)との試合後に、小島聡のマイクを横取りし、マイクパフォーマンスをする。この後小島は真田、T28と共に新たなユニット『AJF(オールジャパン・フューチャー)』を結成することを明言。しかし、小島がこの日のメイン終了後に本体を裏切りまさかのVM入りをしたため、AJFは幻となった。
7月15日、T28から逆エビ固めでシングル初勝利をあげる。10月シリーズでアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦。椅子で滅多打ちにされたが、試合後レジェンド級の選手から「彼はスターになれる素質を持っている」と絶賛された。
2008年はヘビー級に転身すると本人が明言。4月5日、第一試合にKAI、大和ヒロシとの若手タッグで、カズ・ハヤシ、荒谷望誉、平井伸和組と対戦。試合は真田が荒谷を投げっぱなしジャーマンでピンフォールし、初の先輩越えを成し遂げた。そして最終戦では征矢学とのタッグで荒谷、平井組と対戦。平井からドラゴン・スープレックス・ホールドで勝利し、期待に応えた。そしてその勝利の後に、来年(2009年)のチャンピオン・カーニバルへの出場を立候補した。
5月5日、韓国・ソウルでの新韓国プロレスNKPWA世界チャンピオン決定戦に、KAIとのタッグでの出場が決定した。これが初の海外遠征である。6月22日、後楽園ホールにて健介オフィスの起田高志とシングルで対戦。序盤圧倒するも後半は起田のアメフト殺法に苦しめられなんとかドラゴン・スープレックスで勝利。全日本の意地を見せた。
全日本プロレスヘビー級戦線での活躍 [編集]
9月シリーズの後楽園で行われた鈴木みのるのGURENTAIVS全日本プロレス本隊5対5マッチ(GURENTAIが負ければ全日本撤退、勝てばGURENTAIがシリーズ全戦メイン)に抜擢される。試合はパートナーの西村、ジョー、カズが破られ残されたのはキャプテンの武藤と真田だけだったがNOSAWA論外をドラゴン・スープレックス、TAKEMURAを後方回転足折固めで立て続けに破った。試合こそキャプテンの武藤がフォールを取られ破れたものの正規軍の中で唯一最後まで生き残り、先輩レスラーから立て続けに2勝を挙げた。
11月3日両国大会で、征矢学にやぶれるも、試合終了後に征矢から最強タッグ出場の申し立てがあった。真田もコレを承諾し、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦への出場をアピール。最強タッグでは征矢と共に奮闘するもキャリアの差から連敗が続き、武藤・浜亮太組との対戦でようやく1勝を掴むと2人で喜びを爆発させた。しかし、最後の対戦相手であったジョー・ドーリング・ゾディアック組がゾディアックの負傷欠場により戦線離脱。最強タッグの成績は2勝5敗という結果に終わったが師匠の小島と対戦した際その若さと勢いを評価された。
3月1日、後楽園ホールでパートナー征矢学とのチャンピオン・カーニバル出場権を賭けたシングルマッチが決定、これに勝利しチャンピオン・カーニバル出場権を獲得。
チャンピオン・カーニバルに向けてトレーニング器具に頼らずあえて自然の中でトレーニングを行う。CC出場権を争った征矢が全面的に真田のトレーニングをサポート、4月5日の開幕戦でもセコンドについた。しかし結果は全敗。
5月17日、パートナーである征矢と組んでF4のKAI、大和とタッグで激突。若手同士の熱い試合を展開し、結果はパートナーの征矢がKAIから勝利。この試合を見た武藤敬司から「俺達には出来ないような可能性を見た。」と高評価を受けた。
無我の後継者 [編集]
それからも相棒の征矢と共に若手ヘビー級戦線で活躍していたが、その征矢が長州に弟子入り志願するなど話題を集めていることにジェラシーを爆発。2009年度の最強タッグでは相棒の征矢ではなくその師匠の西村修と組んで出場することが決まった。その後、元相棒の征矢から逆さ押さえ込みで勝利した試合のバックステージにて、西村から「無我の後継者に相応しい」とのコメントを受ける。本人も無我の思想を追求していく構えであり、しばらくは派手な大技を出すことを控えている。
10月、ANNIVERSARY TOUR 09では開幕戦の6人タッグでライバル征矢から西村仕込みの逆さ押さえ込みで勝利。前三冠王者の高山、諏訪魔、河野、ドーリング、ゾディアックというスーパーヘビー級の大物選手とシングルで対戦(結果は全敗)、タッグマッチでは大先輩の渕からフォールを奪うなど大健闘した。
肝心の最強タッグリーグでは太陽ケア、鈴木みのるの世界タッグ王者チーム戦ではなんと真田本人が元三冠王者のみのるからフォール勝ちを納めるという大金星を見せるなど今後の活躍を予感させたが、インフルエンザにかかってしまうという事態に陥ってしまい無念のリタイヤ。(その後もジョー、KAI、小島もインフルエンザでリタイヤ。)ブログ上でファンに謝罪した。
新世代軍として [編集]
12月13日、ファン感謝デーで復帰。「ALL JAPAN FUTURE」として河野とタッグを組み、諏訪魔・征矢組とメインで対決。24分の激闘を展開し、最後は真田自身が諏訪魔のラストライドに沈んだ。
2010年1月3日、新春シャイニングシリーズでは諏訪魔、河野、征矢、浜と新世代タッグを結成し、武藤、小島、曙、西村、船木誠勝組と3本勝負で対戦。その際師匠の西村から首固めでピンフォールを奪い、新世代軍の勝利に貢献した。さらに翌日、西村とのタッグで諏訪魔、河野組と対戦。なんと諏訪魔からこだわりの回転足折りエビ固めでまさかの大金星を奪って勝利。自身のインフルエンザで途中欠場して幻となった諏訪魔・河野組との最強タッグリーグを制した。
2月7日、後輩の中之上靖文とのシングルに勝利した後、バックステージで一番気になる選手として太陽ケアを挙げ、HOLD OUT TOUR 2010の開幕戦でシングルマッチが決定した。
2月28日、グリコパワープロダクションドリームマッチにてベンチプレス大会に出場。近藤修司、中之上靖文、中西学、平澤光秀というメンバーの中で220kgを記録し準優勝となった。
3月7日、HOLD OUT TOUR 2010の開幕戦、太陽ケアとの対戦が実現。入場曲を一新し、黒かった髪を金髪に染め上げてファンにアピール。試合は元三冠王者相手に大接戦を展開した。
4月5日、自身二度目の出場となったチャンピオンカーニバルでは初戦でかつての師匠である小島と対戦。試合は破れるも前三冠王者を相手に大接戦を展開しあと一歩まで追いつめた。小島は自信のブログで「真田のこのリーグ戦に懸ける思いを感じて、正直恐怖を覚えた」「5年後にはとてつもない選手になってる。」と大絶賛した。チャンピオンカーニバルの結果は1分け3敗で勝ち星を奪うことは出来なかったが、それを反省したうえで「次は全日本の歴史を知りたい」と来年に向けて前向きなコメントを残した。
7月2日、後楽園で行われた「新世代軍vs.超党派軍vs.ブードゥ・マーダーズ全面対決6大シングルマッチ」で三冠王者の鈴木みのるとシングルで対戦。試合には破れはしたもののスピーディーな展開でチャンピオンを翻弄、激しい試合を展開した。
es [編集]
7月25日、後楽園大会の「新世代軍vs超党派軍8人タッグマッチ」に勝利(諏訪魔が鈴木からフォール)。その後海外修行から帰って来た征矢と組んでアジアタッグ王座への挑戦を表明。そして8月29日の両国大会で見事アジアタッグ王座を奪取。自身初となるベルト獲得に成功。その後ファン公募でチーム名は「es」に決定、新世代軍が解散した後もesとしての活動は継続。
11月6日、台湾で行われたアジアタッグ挑戦者決定トーナメントに勝ち上がって来たKONO・稔組に勝利し海外で初防衛に成功。
年末の最強タッグ決定リーグ戦ではesとして参加。アジアタッグ王者として奮闘するも3勝4敗1分7点で決勝進出はならなかった。さらに白星配給係状態だった元プロレスリング・ノアの本田多聞、菊地毅組に破れるという失態を犯し、彼らのアジアタッグ挑戦が決定した。
得意技 [編集]

藤波辰爾のドラゴン殺法を彷彿とさせる、腰への攻めを中心に試合を運んでいく。
ドラゴン・スープレックス
現在のフィニッシャー。2007年11月23日に初公開し、山口竜志を下した。その後もこの技で平井などの先輩レスラーや同期のレスラーたちからピンフォール勝ちを納めている。ジャーマン・スープレックスは投げっぱなしを多用するが、こちらはそのままホールドすることが多い。
タイガー・スープレックス
2009年3月1日、後楽園ホール大会で初公開。ライバルの征矢学を下してチャンピオン・カーニバルに出場するきっかけとなった技である。
ジャーマン・スープレックス
ドラゴンへのつなぎや、ドラゴンが失敗したときなどに使われる。これで勝利を得たことも少なくはない。
回転足折り固め
別名ローリング・バック・クラッチ。上記3種のスープレックスが返された時などに使う、真田の奥の手である。
逆さ押さえ込み
2009年10月11日、ライバルの征矢をこの技で下す。西村修から、『無我』の後継者に相応しいと認めさせた技でもある。
ドロップキック、ミサイルキック
デビュー当初からの得意技。長身から繰り出されフォームも美しい。カウンターやスワンダイブ、ダッシュしてロープの反動を利用するなど、レパートリーは豊富である。ミサイルキックもデビュー当初からの得意技。スワンダイブ式を頻繁に使い、相手をマットに叩きつけるような角度で突撃するため威力は高い。2009年のJCBホール大会では、花道に落とされるもそのまま助走をつけ、トップロープを飛び越えてリング内のジョー・ドーリングにドロップキックを当てるなどの身体能力を見せ付けた。それ以後、花道からのドロップキックをここぞという時に使う。また、場外に落とした相手へ、リング上からトップロープを飛び越える、いわゆるドロップキック・スイシーダをも決める。巨漢選手が相手だとミサイルキックが受け止められやすい。
ワンハンド・バックブリーカー
腰攻めの要。バックドロップと同じ体勢から入るため受身が取りづらい。かつての藤波辰爾の得意技のひとつ。
ローリング・クレイドル
若手では珍しくデビュー当初からこの技を使用している。
その場飛びムーンサルト
バックドロップ
コブラツイスト
タイトル・受賞歴 [編集]

アジアタッグ王座 : 1回(第84代)
パートナーは征矢学。
サムライTV杯争奪トリプルアロートーナメント優勝(パートナーは佐々木健介、中嶋勝彦)
2007年5月に行われた、サムライTVが主催する6人タッグトーナメント。中国地方の戦国大名、毛利元就の「三本の矢」をモチーフとしている。このトーナメントに、佐々木健介、中嶋勝彦とのタッグで優勝。準決勝では同期のT28を下し、デビューたった2か月で栄冠を手にした。
PLAYBOY CHANNEL NIGHT ナナイロ賞
夏目ナナプロデュース興行で、夏目ナナが個人的に気に入った選手に与えられる賞。
ファイトスタイル [編集]

レスリング仕込みのスープレックス、スワンダイブなどの華麗な技、ローリング・クレイドルのようなクラシカルな技など幅広くこなし、特に抑え込み技にはこだわりがある。 フィニッシュにドラゴン・スープレックスを使っていることで分かる通りドラゴン殺法を好む。藤波辰爾について「(プロレス界に)入ってから好きになりました」と語り、根性よりも技術で闘う姿に惹かれたとのこと。また西村修のようにあまり大技を出さないレスリングが好きだとも語っている。またその西村修からは「無我の継承者」として期待されている。
人物 [編集]

同期達がジュニアヘビー級で活躍しているのに対し、真田はヘビー級の選手として地道に勝ち星を増やし着実に成長している。またその新人離れしたテクニック、センスはファン・関係者共に評価が高い。
征矢曰く女性ファンがかなり多いらしい。
デビュー当初は身長の割に細い体つきだったが、現在はトレーニングの成果からか、かなりビルドアップされた肉体となっている。また学生時代は小柄で、中学生の頃は140cm代で40kg代、高校は170cm以下の60kg。プロレスに入った時は177cm、75kgだった。
デビュー当時から青、もしくは水色のショートパンツに白いレスリングシューズがトレードマークである。一時期、若手時代のジャンボ鶴田を彷彿とさせる赤、青、☆マークの三拍子揃ったロングタイツを着用していたことがある。
TARUからは「サナダムシ(君)」と呼ばれている。
過去に好きだったレスラーは闘魂三銃士、西村修、小島聡、天山広吉、そしてキング・オブ・ザ・ヒルズ時代の棚橋弘至。しかし好きなレスラーを1人に絞るとなぜか上記では触れられなかったリック・フレアーになるらしい。
二十歳になって飲酒出来るようになると4kgも体重が増えたらしい。
週刊誌のインタビューで今後の野望について聞かれ、「全日本の新人といえば真田だ、みたいな感じになりたい」と答えるも、新人だとルーキーという意味になると突っ込まれる。「新星にしますか?」と聞かれるも「『新しい』に『生まれる』ですよね?」と発言し、これまた突っ込まれると「新生だとどういう意味になるんですか?」と逆に質問。「新生」の意味を知ると「あ、そういう時に使うんですね」と言い、結局今後の野望は「新星」に落ち着いた。
KAI、T28、大和とは同期入門であるが彼らより4つ年下であるため彼らには敬語で話している。ちなみに3つ年上でタッグパートナーの征矢からは真田さんと呼ばれている。また征矢とは非常に仲が良く、師匠の西村からも非常に可愛がられている。
好きな有名人は松田優作。探偵物語を再放送で見てからファンになったとのこと。
BBQ CHICKENSのファン。練習生時代はホームシックで何度か帰りたいと思っていたがウォークマンで音楽を聴くことによってその辛さを乗り越えたらしい。また大和ヒロシによるとザ・ピーナッツの「恋のバカンス」を聴くとテンションが上がるらしい。
好きなブランドはGAINGROUND。全日本プロレスの受験生に向けて、入団して良かったことについて聞かれ「先輩から沢山服を貰って嬉しかったです」と語った。
学生時代は部活終わりによく鬼ごっこをしていたらしい。そのためか今でも鬼ごっこが趣味であると語っている。
西村、内田全日本プロレス取締役も所属している草野球チームに所属している。またプロレス入りするきっかけとなった(?)横浜ベイスターズの大ファンでもある。
アンパンマンのファン。好きなキャラクターはバイキンマンとカバオくんとのこと。
2010年3月の太陽ケア戦で金髪を披露したが、これは本人曰く「ライオン and スーパーサイヤ人」らしい。
入場曲 [編集]

PROBABIRITY
青春の嵐/真田広之とペガサス幻想/MAKE-UPのミックス。※旧テーマ曲
【2010/12/28 19:31 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
境敦史
KAI(かい、男性、1983年5月20日 - )は、日本のプロレスラー。神奈川県横浜市出身。横浜市立桜丘高等学校卒業。全日本プロレス所属。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 メキシコでの活躍〜凱旋帰国
1.2 若手から全日ジュニアのホープへ
2 得意技
3 獲得タイトル歴
4 入場曲
5 人物
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]

中学時代は野球部に所属。練習はかなりキツく毎朝6時から10km走ったり、台風の中でスライディングの練習をしたこともあるというが、この時培われた基礎体力が後に役立ったと語っている。
元々プロレスに対してさほど興味は無かったが、高校1年生の時に新聞の懸賞で新日本プロレスの東京ドーム大会のチケットが当たって観戦したことからプロレスにどっぷりハマることとなった。またこの時のメインは後の全日本プロレス社長の武藤敬司が務めていた。
それからというもの学校に行けば朝から週刊プロレス、週刊ゴング、週刊ファイト、内外タイムスを読みあさり、バイト代は全て週末のプロレス観戦費用につぎ込むようになる。 この時からプロレスラーになることを夢見るようになり高校2年で柔道部に入部(同部の先輩には石塚英彦がいる)。入部初日に「プロレスラーになるために来ました。宜しくお願いします」と挨拶し、高校3年になって他の部員が引退して受験勉強に励む中、一人トレーニング場で筋トレに励んだ。
当時は日本のプロレスよりもWWEなど海外のプロレスに興味を持っておりWWE入団を夢見ていた。しかし、知り合いの誘いで海外インディー団体を観戦するため渡米するがその団体のレベルの低さに愕然とし、やはり日本のプロレスの方がレベルが高いということで日本の団体でプロレスラーになることを志す。
高校卒業後、新日本プロレスの入門テストを受けるが若過ぎたことと身長が低かったことで失格。ちなみにその時彼を落としたのは永田裕志。そして同じく試験を受けていたのは中邑真輔と後藤洋央紀だったという。
知り合いの勧めで入門したアニマル浜口ジムに約3年半通い体を鍛え、2006年に行われた『武藤塾』の新人オーディションに合格し入門する。同期にはT28がいる。
練習生時代は武藤敬司に師事し付き人を務めていた。
メキシコでの活躍〜凱旋帰国 [編集]
2007年2月に、同期入門の三原弘嗣(YAMATO、現在の大和ヒロシ)と共にメキシコ修行に出る。2月22日、IWRGにてKAIのリングネームでアレナ・ナウカルパンにてロス・トラウマス1号2号相手に3本勝負形式でプロレスデビューし見事勝利を飾る。
6月3日、YAMATO、元SUPER CREWのSASAKIと組んでIWRGトリオのタイトルに挑戦するも破れる。
2008年2月17日の後楽園大会で日本デビュー戦を行い、同期の真田&T28から勝利を奪った(パートナーは大和ヒロシ)。
その後、大和とのタッグでジュニア・タッグリーグ戦に出場。若手ながらも奮闘し、土方隆司、中嶋勝彦組、NOSAWA論外、MAZADA組から大金星をあげる。
4月20日、同期であり同門でもあるT28とのシングルマッチが実現。試合ではKAIがスプラッシュブランチャで勝利した。意外にも、シングルマッチはこの試合がレスラー人生初で、デビューから1年以上経っている選手にしては珍しいことである。
5月5日、韓国・ソウルでの新韓国プロレスNKPWA世界チャンピオン決定戦に、真田聖也とのタッグでの出場が決定した。
若手から全日ジュニアのホープへ [編集]
6月10日、武藤祭にて土方隆司、カズ・ハヤシを相手に3WAYマッチが決定。そして試合当日、なんと世界ジュニア王者の土方から必殺のスプラッシュ・プランチャでフォール勝ちを奪うという大金星を納め会場から大歓声を受ける。対戦相手の1人であるカズに「スゲー化け物が出てきたなって感じですね。」と言わしめた。
6月28日、シリーズ最終戦では開幕戦でタッグマッチながら敗れていたT28からスプラッシュプランチャでリベンジ。そして土方隆司、エル・サムライの世界ジュニア王座戦終了後にジュニアの面々がリングに集合。カズのマイクを横取りして挑発し次期シリーズのジュニア・ヘビー級リーグ戦に向けてアピールした。
ジュニアリーグ最終戦でMAZADAを撃破。決勝に上がってきた元世界ジュニア王者のシルバー・キングも変型みちのくドライバーIIで下し、1日2戦の激闘を潜り抜け優勝を果たした。デビューから1年5か月での快挙であり、若手ジュニアの中でも頭一つ飛び抜けた。
そして更に8月31日、両国国技館で世界ジュニア王者の土方隆司への挑戦が決定。デビューして1年6か月での世界ジュニア王座挑戦は世界ジュニア史上最速での挑戦である。
8月22日、後楽園での小島聡対TARU戦終了後、VOODOO-MURDERSにリンチされていた小島を天山広吉、大和と共に救出。小島、大和と新ユニット「F4」を結成し活動して行くことを宣言した。
8月31日の国技館大会で、土方隆司との世界ジュニア王座戦に挑んだ。期待は高かったが初挑戦・初戴冠はならなかった。
10月13日、新日本プロレスの両国大会に参戦。G・B・Hと激突したが、惜しくも敗れる。11月3日、両国でF4のメンバーと組んで新日本プロレスの天山、そしてIWGP・ジュニアタッグ王者の内藤哲也・裕次郎と対戦。
2008年末のプロレス大賞新人賞部門にノミネートされ、最終選考まで残るが惜しくも受賞を逃した。
2009年新春シャイニングシリーズで小島と組んで復活したアジアタッグトーナメントに出場。1回戦は通過したものの準決勝で破れ、自身初となるベルト獲得はならなかった。
2月6日、鈴木みのる、MAZADA組との対戦後、また小島と組んでアジアタッグに挑戦することが決定。結果はみのるの逆落としからのスリーパーという必殺フルコースで敗北。鈴木から「良いオモチャを見つけた」と賞賛(?)を浴びた。
5月15日に行われた腐男塾とのコラボ大会「腐ァイティングライブ 2009 勝つんだ!」では第1試合で「阿修羅像」をモチーフにしたコスチュームでブードゥーマスクと対戦し勝利。試合後は四方に向かって4人で阿修羅像のポーズを決めた。
2009年度のジュニア・ヘビー級リーグ戦では開幕戦で世界ジュニア王者のカズに勝利し前大会優勝者としての意地を見せる。そのまま勢いに乗ってAブロック1位に躍り出るも、優勝決定トーナメント1回戦でBブロック2位の近藤修司に破れ優勝を逃した。
8月30日、両国大会ではF4の一員としてプロレスリング・ノアの小橋建太、菊地毅、伊藤旭彦と6人タッグで激突。
12月13日、ファン感謝デーにて大和と組んで小島と女子プロレスラーの下田美馬と対戦し、結果大和が下田のラ・マヒストラルでフォール負け。試合後「恐れ入りました。」と頭を下げた。
2010年、ブードゥーマーダーズとの抗争が激化し、2月7日の後楽園大会で敗者チーム解散キャプテンフォール・イリミネーションマッチを決行するがこれに敗北。F4の解散が決定してしまう。
その後は世界ジュニアに標準を絞り、3月の両国大会でジュニア絶対王者のカズに挑戦。王座奪取はならなかったがカズから「ありがとう」との言葉を受け取った。
その後も全日若手のホープとしてジュニア戦線を盛り上げている。
得意技 [編集]

スプラッシュプランチャ
現在のフィニッシャーでいわゆるフロッグスプラッシュ。日本デビュー戦でこの技を初披露し見事フォール勝ちを納めた。
LAT
変型みちのくドライバーII。ジュニア・ヘビー級リーグ戦の決勝戦で披露。相手のシルバー・キングを下し、リーグ戦を制覇することになった。名前の由来は、メキシコにある歴史的建造物からとっている、との説がある。
KAIクラッチ
いわゆるオクラホマロール。カズ越えを果たした技でもある。
BTバスター
相手の背中に両膝を押し当ててから後ろに倒れこみ背中に衝撃を与える変形のバックブリーカー。WWEのカリートの得意技でもある。
ダブルアーム式パイルドライバー
ジュニア・ヘビー級リーグ戦でのエル・サムライ戦にて披露。
ダイビング・フットスタンプ
獲得タイトル歴 [編集]

2008年度ジュニア・ヘビー級リーグ戦 優勝
入場曲 [編集]

BANG BANG SHOOT / 松本晃彦
人物 [編集]

自称プロレスマニア。単に勝ち負けだけの総合格闘技やK-1には全く興味が無いらしく「生涯一プロレスラー」と宣言している。
他団体のレスラーからの評価も高く、DDT社長の高木三四郎は「KAI選手はすごく良い」と絶賛している。
アニマル浜口ジム出身だけあってリングを降りると非常に礼儀正しい好青年であると伝えられている。同門にはT28がいるが先輩には新日本プロレスの内藤哲也やDRAGON GATEの鷹木信悟がおり、特に鷹木とは仲が良かったという。
元々は黒い髪に黒いコスチュームが彼のトレードマークであったが、F4に所属してから大幅なイメチェンを施している。2008年10月後楽園では、鮮やかなオレンジ色に髪の毛を染毛。染毛したのは有名なカリスマ美容師で、このことは週刊プロレスでカラーの2ページで取り上げられた。
T28がメキシコ修行に行った後の全日本道場の寮長を務めている。
【2010/12/28 19:27 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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