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ピーター・ジャクソン(Sir Peter Jackson, KNZM、1961年10月31日 - )は、ニュージーランド出身の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。おなじく脚本家で映画プロデューサーのフランシス・ウォルシュとの間に2子がいる。
初監督したスプラッター・ホラーの『バッド・テイスト』が評判になり、続けて撮った『ミート・ザ・フィーブルズ』と『ブレインデッド』もヒットしカルト映画の巨匠となる。 『ロード・オブ・ザ・リング』三部作で数々の記録を打ち立て歴史的大成功を収め世界的な映画作家となった。 目次 [非表示] 1 生い立ち 2 キャリア 3 私生活 4 フィルモグラフィ 4.1 出演のみ 5 主な受賞歴 6 参照 7 外部リンク 生い立ち [編集] ウェリントン郊外、プケルア・ベイ生まれ。両親はイングランドからの移民[1][2]。レイ・ハリーハウゼンの作品とテレビシリーズ『サンダーバード』の大ファン。9歳のときにテレビで見た『キング・コング』に感動し、友人から貰った8mmカメラを使い短編映画を撮り始める。映画制作の専門教育は1度も受けておらず、新聞社に勤務しながら友人たちと短編映画の制作を始める。1978年に公開された『指輪物語(前編)』からJ・R・R・トールキンの世界を探究し始める。『指輪物語』に対する思いは『ロード・オブ・ザ・リング』の構想へとつながる。 キャリア [編集] 1983年から4年をかけ制作した低予算映画『バッド・テイスト』で監督デビュー。同作品はカンヌ国際映画祭で上映され世界中に配給される。1989年には『ミート・ザ・フィーブルズ』を制作し、特撮を担当したクリエーターのリチャード・テイラーと知り合う。以降『ロード・オブ・ザ・リング』を含め二人の共同作業は長く続く。1993年にWETAデジタルを設立。カルトなスプラッター・ホラー映画で好評を博す。1994年に公開された『乙女の祈り』(英題: Heavenly Creatures)は、ジャクソン、妻のフランシス・ウォルシュ、映画プロデューサーのジム・ブーツの3人の映画制作者により作られた幻想的な映像作品。それまでのホラーコメディー作品から大きく作風を変え、ティーンエイジャーの不安定な内面を幻想的な映像表現で描いた。ジャクソンはこの映画でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)ほか16の映画賞を受賞し、同作品に出演したケイト・ウィンスレットは世界的な映画俳優になる。1995年には、ニュージーランドの映画制作者コリン・マッケンジーを描いたモキュメンタリー作品『Forgotten Silver』を発表。 1996年にロバート・ゼメキスプロダクションとマイケル・J・フォックスを起用した『さまよう魂たち』(英題: The Frighteners)を公開しハリウッド映画へ本格参入する。1996年に『キング・コング』のリメイク制作が決定していたが、同時期に公開が予定されていた『GODZILLA』や『マイティー・ジョー』など競合する特撮映画が多く、ジャクソンの商業的手腕に疑問を感じたユニバーサル映画は制作を凍結する。ジャクソンはこのころより『ロード・オブ・ザ・リング』の構想を具体化し始める。 2001年から2003年に公開されたJ・R・R・トールキンの『指輪物語』を原作とする『ロード・オブ・ザ・リング』三部作はニュージーランドで撮影を行い壮大な映像表現による映像作品を完成させる。同作品は数々の記録を打ち立て歴史的な成功を収めた。特に完結編である『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』はアカデミー賞トップタイの11部門を受賞。彼も『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』でアカデミー監督賞とアカデミー脚色賞を受賞した。これにより一躍世界的なフィルム・メーカーになる。なお、日本語版については日本のファンから戸田奈津子の誤訳の批判が多く寄せられ、テレビのインタビューで日本語訳を別人に担当させると言ったという。 『ロード・オブ・ザ・リング』の成功によりユニバーサル映画は再度ジャクソンに『キング・コング』の制作を依頼する。ジャクソンは長年の夢であった1933年制作の『キング・コング』[3]のリメイク権を獲得し『キング・コング』を公開する。この作品でも成功を収めアカデミー賞3部門を受賞した。 2006年、マイクロソフトのゲーム『Halo』の映画化を自らメガホンを取ることで制作を発表したが、配給元の金銭的な理由により制作は無期限延期となった。3年後の2009年、その『Halo』の制作発表の際に集められたスタッフ及びキャストをプロデュースし『第9地区』を公開。わずか3000万ドルの製作費で北米興行収入1億ドルを突破した[4]。また、同年には『ラブリーボーン』で監督に復帰。『ラブリーボーン』は英国王室主催のチャリティーイベント「ロイヤル・フィルム・パフォーマンス」2009年度招待作品に選出されロンドンで上映会が開催された。 スティーヴン・スピルバーグが監督を担当する『タンタンの冒険旅行』シリーズ第1作目『タンタンの冒険旅行/なぞのユニコーン号』ではプロデューサーとして参加。シリーズ第2作では監督を務める予定である。 ギレルモ・デル・トロが監督するはずだった『ホビットの冒険』では脚本家・製作総指揮のみを務める予定だったが、スタジオの経営不振など相次ぐトラブルによるスケジュールの遅れでデル・トロが降板し、結局ジャクソンが監督もすることになった[5][6]。 私生活 [編集] ニュージーランド出身のクリエイターの多くが海外に活動拠点を移す一方、ジャクソンは自身のスタジオをウエリントン郊外の地元に置いている。また早くからコンピューターを用いた視覚効果技術にも精通している。 『バッド・テイスト』で知り合ったフランシス・ウォルシュとの間に2人の子供がいる。彼女は ジャクソン作品の共同脚本・プロデューサーも務めている。 自身制作の映画を含め、カメオ出演することもある。小さな役柄での出演のためクレジットタイトルに名が載ることはない。 『ロード・オブ・ザ・リング』の功績を評価され2001年にマッセー大学より名誉文学博士号を授与されている(同学位記はフランシス・ウォルシュへも授与されている)[7]。 長らく肥満体形であり、髭と眼鏡がトレードマークであったが、近年ダイエットにより30kgの減量を果たし、中肉の体型となった[8]。同時に近視を治す手術もしてトレードマークの眼鏡も外した。 2002年にエリザベス女王よりニュージーランド・メリット勲章(コンパニオン)を授与され、2009年12月31日に映画界への貢献によりニュージーランド・メリット勲章(ナイト)を授与され“サー (Sir)”の称号を得る。 PR |
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